ex.遭難
洗面台の前で何かが足を刺した。床がいつものように平らではないことについて考えている間に、血管が此処だ此方だと騒ぎ出して、ようやく足の裏を見よう、と思う。痛む方の足を持ち上げると、ころんと何かが剥がれて落ちた。土踏まずの少し下に血が膨れる。唾をつけるとすぐに止まった。お尻を床につけて、転がったものをつまんで眺める。小さくて、画鋲のように尖っていて、赤い石のついた綺麗なものだ。切れかかった白熱灯の灯りを、大きさに見合ったきらめきで跳ね返す。どこかで見たような色だ。僕のものではない。
「おい、頭拭いたのか」
夢中の視界に大きな足が踏み込んできて、人の首に下げられたタオルがぞろりと降りてくる。じっと見るとその人は磯貝くんで、いらっしゃい、と挨拶をすると彼の眉毛が厳しい角度になった。肌着のようなシャツに半ズボンとは、ずいぶんくつろいだ格好をしている。磯貝くんは首のタオルを取って、僕の頭にかぶせるや否やガシガシと掻くように吹いてくれた。人に頭を拭かれると子供になったような気がして、少し泣きたくなる。磯貝くんのような年下の男の子を相手にしてもそうなのだから、これは親から子へするような慈愛に満ちた行動なのだろう。粗い手つきに耐えるために握った拳を、タオルが離れていくのに従って開いた。丸く窪んだ手のひらにポツンと収まるそれは、やはり見覚えがある。どこで。たしかどこか素敵なところで。頭の隅をつつき回している間に、磯貝くんが「あった」と言って指を伸ばしてきた。反射的にまた握りこんでしまう。
「落ちてたんだ」
「そのピアス俺のだぞ、多分」
「僕の足に刺さったんだ」
「そりゃ悪かった。で、何、欲しいの」
欲しい、とは思っていなかったけれど、指を開いてそれが無くなってしまうのが嫌で、頷いた。磯貝くんは喉をざらつかせながら唸って、別にやってもいいけどよと言いながら膝をつく。足首が磯貝くんの手に掴まれてワッと熱くなった。彼の手は大きく、満ち満ちたエネルギィがにじみ出ているようにいつも高い熱をもつ。その手に掴まれて、すぐに治った小さな傷も開いてしまいそうだ。掴まれた足首は思いもよらぬほど高く持ち上げられ、僕は情けなく後ろ手をついた。ちょうど首を屈めた磯貝くんの顔の真ん前に僕の足は持って行かれた。彼の小さな瞳孔がさまよい、何か目印を見つけて止まる。
「血は止まってるけど、痛くないか」
「はじめだけ痛かったよ。でももう平気だ」
「ああそう」
途端、痒みに似たチリッとした痛みが走った。自分の足が前にあってよく見えないが、磯貝くんの舌がまだ新しい傷を撫でている。平たい部分で湿らせられ、力を込めて細くなった舌の先で押されて痛痒さが脛を駆け上る。もう血は止まっているのにどうしてそんなことをするのだろう。舌のある生き物にとっては何か意味のあることなのだろうか。首をのけぞらせると、髪の毛の先がまぶたに張り付いて雫を流し込んでくる。ああ髪が濡れている。外はひどい雨だ。だけど家の中なら安心だ。磯貝くんが早く僕の足の味に飽きてこちらを見てくれますように。しんしんと耳に入る雨音が今の物なのか、それとも昨日のものなのか、それを君に聞きたいのだから。
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