ex.僕たちあいしあっているんです

 浩太郎くんはしばしば無くなる。それは何の前触れもなく、例えばいつもよりも機嫌の悪さが際立つなどの兆しもなく、強いて言えば雨が強い日に時々無くなってしまう。僕の部屋は人一人分の密度を失うが、それもまあ空間として大した差ではない。彼はここに住んではいたものの、殆ど身一つだったから。

 大事なものを無くした時に減るのは密度や質量ではない。僕は昨日の帰宅時、ドアを開けた瞬間から無くなっていることに気がついたが、靴を脱いでソファに直行し腰掛けた状態のまま、時計を見ればもうすぐ10時間が経つ。右手にはまだ仕事用鞄の持ち手がかかっている。時々外で鴉が鳴いた。

 物音が多少したところで浩太郎くんだろうか、などという期待は持たない。大抵浩太郎くんではないからだ。壁に浩太郎くんの怒声の残響がありはしないかと指を這わせて探すこともしない。残響は浩太郎くんではないからだ。僕はただ待つ。無くなったものが現れるまで、じっと待つ。

 過去最長の空白は何日だったかを思い出そうにも、数日間だという覚えしかない。今のようにソファに座り続けて時間を数えるのをやめた頃に、気がついたら病院で点滴繋ぎになっていた。栄養失調で死にかけたらしいが、浩太郎くんの泣き腫らした不細工な顔を見られたので僕はそれで良かった。死んでしまったらもう浩太郎くんには会えないが、死ぬまで無くなったままなら浩太郎くんだって死んだも同然だ。僕の知らない所で死んだものには興味もない。ただ無くしてしまったので動くことはできない。外壁を叩く雨粒の音が、グラデーションをもって徐々に小さくなってく。何かガチャガチャ聞こえたと思ったら膝と顔に小さなものがはたはたとぶつかった。いつの間にか閉じていた目を開けると、浩太郎くんがあらゆる場所から雫を垂らして僕の顔を覗き込んでいた。僕はやっと鞄を手放して、自由な手で彼の額に張り付く前髪をかき分けた。

「ごめんね、浩太郎くんのソファ借りてたよ」

 彼の特等席をお返ししようと腰を上げかけたが、浩太郎くんが微動だにしないため立ち上がることができない。邪魔だな、タオルを持ってこないと風邪を引いてしまうのにな、と思う僕の前で、恋人は中腰の姿勢からずるずると陥落した。膝に埋まってしまったびしょ濡れの頭に手のひらを乗せる。夏の入りだというのにひどく冷えていて、自分の体温が移っていく過程が非常によく分かった。何度か撫でるとそれは緩やかに持ち上がり、疲労に垂れ下がるひどい顔が僕を見る。

「キスしろ」

 隈と皺で黒ずんだ目は、眼球ごと崩れそうだ。

「なに呆けてんだキスしろってんだろ。おい」

 首を伸ばして命令されるが、まだ全然届かない。僕の背骨にもやる気がなく、一ミリだって頭を下げる気にならなかった。

「佐々木、おい、佐々木、くん」

 二の腕が冷たく濡れ、浩太郎くんの指が絡み付いて嫌でも前かがみになってしまう。鼻と鼻が一瞬ぶつかったが、その距離でも浩太郎くんから唇を合わせてくることはない。そんなことは今まで一度だってなかった。彼から僕に触れるのは、蹴る、殴る、掴む、締める、その他王道のバイオレンス。間近で見つめる浩太郎くんの目は、僕が動かなければ動かないほど大きく泳いだ。外界の闇、電灯と夜のはざまの最も暗い部分ばかりため込んできたような黒目は、寒気がするほど弱い。

「お願い、ちゅーして、お願いします。して、下さい」

「おかえり。浩太郎くん。大好きだよ」

 もっともっと怖い思いをさせて、彼から落ちる雫が雨でなく涙になるまで追い詰めたかった。けれど僕も少し疲れている。彼の背中に手を回して唇を合わせたと同時に、長く潰れた尻が痛んだ。

 浩太郎くんに極限まで近づくと、イチゴのような甘酸っぱい匂いがする。口の中では味もする。舌をかすめる三角の飴は、僕も好きで常備しているものだ。そういえばもうすぐなくなってしまうから買わないといけない。大好きな浩太郎くんの大好物。用意するのは僕の役目だからだ。

 キスの間に雨がやんだ。浩太郎くんは僕を強かに突き飛ばし「タオル」と一言いってソファに体をねじ込んだ。自然押し出された形となった僕は、タオルを取りに洗面所に向かう。ふと玄関のドアを見やり、自分がそこを出て行く過程を想像するが、あまりにも面倒で目眩がした。それから浩太郎くんを着替えさせ、食事を作り、洗濯機を回す。僕の部屋であるので自由に動き回ることができる。日常が当たり前に構築される。浩太郎くんがずっとソファの上に有り、無くならなければ何の不満も問題もないのだ。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

0コメント

  • 1000 / 1000