愛しさよ、まばゆき死を

 壁の向こうで行列をなすたくさんの足音と話し声を耳に通しながら、指先に集中しようと必死だった。このところ手の震えがひどくなってきている。つまんだ筆の先が思ったところに留まってくれず、ひやりとした感触が肌をなでて、とうとう嫌になった。たたき込むようにマニキュアの容器に筆を突っ込み、ひきつる感覚にさいなまれながら固い床板に背を投げた。

 天井に揺れるばかみたいに可愛いモールを眺めている間に、行列は徐々にまばらになり、やがてひっそりと静まり返った。廊下の向こうでステージを片づける重たい音がする。背景のパネルを不器用に運ぶ裏方の様子が目に浮かぶ。今日は床を傷つけずに、どこにもぶつけずに、きちんと片づけられるだろうか。口やかましい支配人のどなり声がしませんように。塗ったばかりの爪もかまわず、祈るように手を握り締めて物音に耳を寄せた。自分の息の音もひそめて、合間に聞こえるあの皮靴の固い響きにうっとりとして。段々と耳に上ってくる心拍に喜ぶ内に、唐突に扉が開いた。

「あら、もう起きてたの」

 声。そして匂い。

「苦労様だこと。まだ昼のお店が終わったばかりなのに」

 光。部屋に入ってきた存在は、光を振りまきながら滑るようにそばに寄ってきた。きらきらしているのは、彼女の髪や胸元や衣装にちりばめられた金箔の効果ではない。目をそちらに向けると、星屑をまぶしたまつ毛が風を起こすように揺れる。蜜漬けに似た唇がひらけば流れ出るのは春の息吹。そこにあるのは、誰もが夢で逢う「うつくしい」もの。

「歓声がすごくて目が覚めたんだ。全く恐れ入る」

「それは悪いことしたわね。もぎりに声かけさせてるのよ。あまり大きな声を出さないようにって。官憲に目つけられちゃ仕様もないわ」

「平気さ。僕がいなくなればいい」

 脱ぎ捨てられて床に折り重なっていく、薄雲のような衣装を眺めていると、ただの控室だのに舞台にいる風な気分になる。こちらが発した言葉に、彼女はふと息をつめた。肌着だけの姿で、セットされた髪と化粧をのせた彼女は作りかけの人形のように見える。それでも滑稽でない。このままの姿で人前にだしたって十分愛されるだろう。

「君は歌い、踊っているだけさ。何も取り立てる理由が無い。僕はそうもいかないが、夜の暗闇のことだからあっという間に消せる」

 こぶしを開いた。爪の表面が少しだけ手の平に張り付いていた。剥がれた色を網膜に残して、じっと彼女の姿を目に映す。彼女は人々の夢であって、希望であって、願いであって、愛である。彼女を見るために劇場に押し掛ける人々の。そして彼女を支える劇場の従業員たちの。

「爪、塗ってあげるわ」

 緩やかに手を引かれて、子どものように起こされた。膝をくっつけるようにして向かい合って座る。爪は一からやり直し、かろうじて形になっていた部分も、台無しになっていた部分も全て一度拭われて、あらたにするすると色が乗せられていく。自分では一晩かけても成せないであろう完璧さで出来上がっていく指先。ひとつふたつ、涙が出た。

「ひとりでここに帰るのは嫌よ」

 最後の小指が世話されて、筆先が離れるころに手の震えが戻ってきた。抑えようと力を入れればよけいにひどくなることを知っているから、みっともない震動を放っておくしかない。

「ひとりでいなくならないで。終わるときは一斉に、みんなバラバラになるの。星が爆発するみたいに」

 何重にも上塗りされた化粧のせいで、彼女の表情をうかがうことはできない。鍛え抜かれた喉のおかげで、彼女の声色から心を知ることもできない。彼女は完璧で、うつくしい。そして、

「馬鹿野郎! それは第三室に運ぶんだ!」

 扉を突き抜けてきた声が、僕ら二人を同じ様に引き寄せた。もちろん声の主である支配人にではない。すいません、と答える低い声に、僕は全力で耳をすましながら、こっそり彼女の顔を盗み見た。ああ、きっと僕らは同じ顔をしている。

「爪、ありがとう」

 彼女の手から指を抜き、シャワールームに向かうためタオルや着替えを探した。引き出しから、体に注入するための薬を手に取る。ひたひたと歩いていく僕に、彼女はいってらっしゃいとやさしく声をかけてくれる。

 これから先はわたしの時間。夜の時間、男の時間。ステージは歌と踊りの光を消して、穴と体液の暗がりを見せるために着々と準備が進められている。ただ今夜は、指先だけはほめられたものだろう。それだけで十分だ。十分だと、思わなければいけない。頭の先からつま先までを望むことはできないのだ。夜の生き物は昼に夢を見る。通り過ぎさまに見た、いとしい裏方のあの人は、まったき昼の顔を、している。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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