阿堵物

 好きなものは何と聞かれたら、まず、金、と答える。金以外で言われたら銭と答える。金が好きだ。財産が好きなんである。裕福というのは良いものだ。心に余裕が生まれる。寒さを知らずに済む。人を僻む醜さに歪まずにいられる。そして自分の身を満足させて、それ以外を見ないようにできる。

 一室まるまるの水槽を俺に与えた大富豪が、ガラス越しにぼうっと座り込んでいる。いつもの綺麗な身なりをしているが、惜しげもなく床に尻をつけている。その床だって埃一つなく磨かれているのだから良いのだろう。子供のように膝を抱える姿は、ちょっとするとまさか頭をやってしまったのかと疑いそうになる。彼がいくつなのか俺は知らない。俺よりも年を経たような顔をしているが、出会った頃は俺よりも幼い顔をしていたような気がする。その間幾年であったかもわからない。ここから月を眺められる様になったのは、つい最近のことだから。

 水をかき分けて、お大臣様の前に行く。瞳がどこか遠くの何もないところを見つめている。他の者に指図する時の獰猛さはどこへ沈んでしまったのだろう。指先でガラスをコツコツ叩くと、俺の存在を知ったようだが、焦点が合うのがやっとの様子で、彼はふやけたように笑った。洋装の首もとを緩めて、深く息を吐く。懐から一旦取り出した時計の鎖がチラッと光った。きんのいろだ。思わずガラスに顔を押し付けるも、すぐに輝きは仕舞われた。彼は時計があまり好きではない。好きではないのに何度も眺める。不思議な男だ。ずりずりと這うように近寄ってきて、筒にした手をガラスに当て、声を出す。

「何か、欲しいか」

 寄せた耳を震動が触り、肌があわだちそうになる。堪えながら、今度は俺が手を筒にする。

「その時計、いつになったらくれるんだい」

 横顔のまま、彼は少し難しい表情をした。何度もねだっては何度も断られている。いい加減にしろと思われているのだろう。だがそれはこっちの言い分でもある。俺はくるりと旋回した。わずか一秒の間に、この水槽の中にある数え切れないほどのうつくしいものを再確認する。海藻、魚、流木、水に朽ちない工芸品、美術品、心地よい寝床、故郷に似た砂、全て彼が揃えたものだ。俺が欲しいと言うままに、沸いて溢れるのを流すように金を使って集めたものだ。全く金は素晴らしい。美への感動も、安らぎも、懐かしささえも補ってくれる。彼の親父が俺から奪ったあらゆるものを、代替品にして返してくれる。

「貴方の手放したくないものが欲しいのさ」

 そう吹き込んでやると、彼はまるで世界全体から見放されたような顔をして、透明な壁にしなだれかかってくる。上等に手入れされた髪で、服で、肌でもって、限界まで俺に近づいてくる。そして決して俺と交わることはない。

 そうとも、手放したくないものを俺にくれればいい。それできっかりあいこになる。俺は金が好きだ。金で得られないもの、金で取り戻せないものの他、すべてを手に入れることができるから。今の俺に与えられた限りのすべてを手に入れることができるから。人の欲は限りないという。俺は人では無い、もはや、生き物として生きているのかも怪しい、水槽の中の品物だから、限りを知っている。残ったのは、同じ思いをする存在が欲しいというささやかな夢。

 声をあげているが、壁に口を寄せてくれないので、彼がなんと言っているのかが分からない。唇を見ていると何度も同じ動きを繰り返している。何気なく腰から下を翻すと、尾びれが舞い彼を包もうとするように見えた。それでもいいな、と思った。時計でなくてもいい。彼自身でもいい。何が欲しいか段々分からなくなっている俺に、彼を丸ごと与えてほしい。ねえお大臣。凋落すればいいじゃないですか。俺と沈んでしまえばいい。貴方の罪の意識なんていらない。後ろめたいくせに俺を放さない貴方の身勝手さと、その小手先の財力が、俺をすっかり物に落とし込んだのだから。

 首もとからふつふつと吹き出る泡が、外耳をなぞっては天に昇っていく。振り仰ぐと、形の崩れた月がある。きんのいろを、している。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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