半月盆と水鏡

 洗面器に張った水に映る顔を、じっと見つめた。真っ平な鏡やガラスに反射される自分は好きではない。写真なんてとんでもなく、紙面に落とし込まれた自分を見ると寒気がする。円形に切り取られて、ぼんやりと薄くて、少し歪んでゆれる、その自分の顔なら、好きだった。まるで知らない誰かのようだ。近づくと、照明の下に頭が入って影が差す。もっと近づくと、瞬きを別にするような瞳がぐんと大きく見えて、もっと。

「またか」

 バン、と強めの音がして、浴室のドアが開かれた。肩越しに振り替えると、くたびれたジーンズのひざが段差を乗り越えて入ってくる。安方、と呼んだが、うまく声が出なかった。

「おお、つめてえ、よくこんな床にくっつけるよなあ」

 両手両膝をついて四つん這いの俺と、壁との隙間に、彼は無理やり割ってきて腰を落とした。靴下の先っちょから親指が半分突き出ている。

「なに」

「何っておめえ、飯食いに行こうと思ったら部屋にいねえんだもん」

「勝手に入るの、やめてくれよ」

「お前の部屋と俺の部屋の鍵型が同じだから仕方ないの。ずさんな寮長を恨むんだな」

 次々と投げつけられる声が壁に響いて、しんと死んでいた空間が崩れていく。安方の体中から熱が伝播して、狭い空間がじわじわと、暖かな場所に変えられてしまう。彼のこういうところがとても嫌いだ。目を細めて、口を横に引き延ばして笑う顔も、嫌いだ。嫌いだから、見たくない。ただ再び覗き込もうにも、洗面器の水にさっきのようには顔が映らなかった。一人でないと、いけないのだ。

「さ、飯行こうぜ」

「いりません、今夜は」

「ばか、食いもんが何もなかったぞ。おかしな部屋だよ。食わなきゃダメ」

 肘が引っ張られて、力任せに立たされる。その感覚は、小さい頃、何かに惹かれてしゃがみこんだ俺を引く父親のそれと似ていて、堪えるために唇を噛んだ。どうしていつもいつも。やっとあっちの世界の方にいけるだろうと、準備を整えたときに限って乗り込んでくるのだろう。壁のどこかに外へ通じる穴が空いていて、そこから安方はじっと俺の部屋をうかがっているのだろうか。不気味な男だ。

 玄関まで引っ立てられ、土間でばたばたと靴を蹴散らしながら、なんとか言い訳を探して苦しい喉を絞った。

「待て、お、お金もないんだ。もう仕送りが尽きたから」

「なんだと?」

 一瞬、腕をつかむ力が弱まった。今が好機と振りほどこうとする直前、安方の力が戻りびくとも動かせなかった。

「奢ってやるさ、仕方ねえ、今日だけだぞ」

「いらない、そんなまでして食いたくない」

「いいから、いいから」

 つま先をどうにか突っかけて、ドアの外へ放り出された。安方はポケットから自分の部屋の鍵を取り出して、ドアにがちゃがちゃと差し込んでいる。錠が降りた音がしたので、本当に同型の鍵らしい。靴のかかとに指を入れながら、憎い背中をじっと見た。やさしかったあの空間が遠い。外は寒い。寒さからも、暖かさからも、あらゆる温度から逃げようとしたのに。

 目から血が出そうなほど睨んだが、振り返ったいつもの笑い顔からは、視線を逃すしかなかった。俺は安方に立ち向かえたことがないのだ。

「今日の分は来月に返しな。仕送りが来たら教えろよ」

「さっき奢るって言ったのに」

「馬鹿おめえ、この世は義理と人情よ」

 背中を押されて、寮の廊下を進むしかない。手首をさすりながら、なぜか前を行かない安方の言葉を考える。義理と人情。その心で、俺をどこまで見ているのだろう。部屋の中は見たのか。ゴミ箱の中の薬剤殻は。風呂釜の蓋の上の剃刀は。脚立とその下に丸めた紐は。それらに向かう気持ちを整えるために、洗面器を窓口にあっちの世界を覗くのに。俺はあの世の俺の顔のほうが好きだ。この世の俺の顔も、この世の安方の顔も嫌いだ。今夜こそ、今夜こそというときに見せつけられるこの世のすべてが嫌いだ。

「おい、ラーメンか蕎麦かどっちがいいかって聞いてんだが」

「どっちでも、いいよ」

 声がうまく出ないのは、街灯がツキツキと気管を刺すからだ。膨らむ夜と鋭い光に追われて、俺は安方の背に逃げ込むしかない。薄ぺらな上着を通した体の熱が、嫌なのに、命綱のように自分を離さず連れていく。今夜こそは死にたかった、ただこれで今日も、朝まで一人にはなれない。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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