ex.無題
頬を冷たくて柔らかいものに預けて、着物が擦れるような音をずっと聞いていた。誰か歩き回っている。きっと何人もの人が、わたしを囲って滑るように、足音を立てずに、するする、さらさら。小さな蔵の天井も壁も、わたしの頭のように、すべやかなものに撫ぜられ続けている。
「誰か、あるの。」
聞くと、ふふふと震えた空気がつむじをくすぐったくさせた。
「誰もあらね。雨だ。長雨の始まりだ。しばらく表にゃ出られねな。」
髪の間に入ってくる指に、頭の中まで絡め取られるような気がした。わたしはそれに自分からもっと入り組みたくて頭を振る。
「お嬢、乳がくすぐってえが」
つむじの上で髪がますます渦を巻く。頬を押しつける柔らかいものはどこまでも離れない。わたしはいつからか自分の形を忘れて蔵の中に広がっていた。薄暗くて埃っぽい空気の細かい隙間にまぎれて、過ごしているのだか、止まっているのだかわからないままにいる。今は腕にミヨさんの腕が、足にミヨさんの足があてがわれて、やっと四肢を思い出す。ミヨさんは蔵に来るなり、床板よりも柔らかいだろうといってわたしの下に寝そべった。ミヨさんに瞼をなぞられたから普段はきかない目が開いて、蔵の天井に開いた穴の数を数えることができる。虫に食われて朽ちた穴はどれも小さい。時々水が落ちてきて、どこかでつぶれた。
「あすはお嬢に蛙とってきてやろか、冷たくて気持ちええぞ」
穴の数が十になり、そこから先をいくつにすればよいか分からなかった。ミヨさんはまた一から数えればいいと言った。蛙の姿を思おうとしてもどこにもいない。ミヨさんが何か歌っている。渦を巻いた髪を、今度はまっすぐに梳かれ、自分が絹のようになっていくのを感じる。目を閉じればまた何人もの人が蔵の中を歩き回る。わたしとミヨさんを睨みながら、するすると。さらさらと。
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