ずるいことして
今日は雪が降るかもしれないと天気予報で言っていた。五時間目の終わりごろに、窓枠に置いていた左のひじが冷え切っていることに突然気が付いて、外を見ると白くちらちらと降り落ちてきていた。何を思うでもなくじっと見ていると、気が付いた教師が注意をしながら「降ってきたなあ」と言ったものだから、他の奴らも窓に体を向けて何か言い合ううちにチャイムが鳴って授業が終わった。六時間目の記憶はない。
「良太、帰んないの」
掃除も終わった教室で、まだ体全体が眠気に重たく椅子に沈んでいたところに、謙三が鞄を下ろしながら聞いてくる。
「帰るけど」
「まだ寝てるの、六時間目で先生に「三木死んでんじゃねえの」って言われてたよ」
「だったら起こせっつうの」
「そんなこと言って、どうせ起きないでしょ。心配されるほど寝るのよしなよね」
机にやたらに白い手が指を広げて、謙三が窓へ身を乗り出した。動かない視界に体が斜めに入るも、薄っぺらすぎで邪魔にも思わない。 あくびが出るわけでもなく、瞼がすごく重いわけでもなく、天気の悪い日はひたすら頭が鈍くぼんやりする。教室にはいつもより多くの人が残っていて、ビニールがこすれる音や紙袋がぶつかる音や、女子の声がきんきんと耳に刺さる。廊下を走る足音が止まない。
「え、良太、チョコもらったの」
信じられない、というような声があがって、机が大きく揺れる。目を何度か強くつぶって、ぼやける風景に集中すると、しゃがんだ謙三が机の下から俺の鞄を引っ張り出して、口を開いていた。
「勝手に見んじゃねえよ」
「だって、珍しいから。クラスの子?」
「知らね。机ン中に入ってた」
「何それ」
口調から驚きが全く衰えないまま、謙三は耳にかかった髪の毛の根元をガシガシと掻いた。自分の身に起きた出来事に対して、他人にそこまで反応されると気分がよくない。しかし、鞄の中にある小さな包み自体が、それほど嬉しいわけでもなかった。模様もない透明なビニール袋に、銀色の幅広い針金で留めがされて、星とハートの形のクッキーがいくつか入っている。名前も何もなく誰が入れたのかさっぱりわからない。ほんとに俺宛なのかどうかも微妙だ。そのうち入れた人が声をかけてくるかと思ったが、ぼうっとしたまま放課後になってしまった。
「ずるい」
腹の筋肉に勢いよく押し出されたような声が、床に跳ね返って飛び込んできた。
「は、お前ゼロか」
頭を掻く手を止めてこっちを見上げてくる謙三の顔は、どう見ても悔しそうに力んでいる。普段の自分の生活から、もらえなくて当然と思っていたものの、やっぱり身近なやつに勝つと優越感がある。遠慮なく笑っていると、口元を大きくゆがめた謙三が鞄を腹に投げつけてきた。
「早く立って、帰るんだから」
「勝手に帰れよ」
「傘、ないくせに」
「お前と相合傘なんてしねえから」
いいい、と訳の分からない声をあげて謙三が足を踏んできた。まだ気分の底は濁って沈んだままだけど、笑って少しすっきりした。息をついて立上がり、コートを羽織ってボタンを留めている間、謙三はイライラしてまた耳元に爪を立てている。よくない癖だと思いながら、荷物を肩にかけた。歩き出してすぐ、先を行く謙三の片手に小さな紙袋が下げられているのと、中からいくつか包装紙の端が覗いているのを見つけた。
「なんだよ、お前ももらってんじゃん」
「そりゃね、良太より友達いるもん」
「じゃあずるいとか、意味わかんねえ」
俺の言うことに返事もせず、早い歩調で行くのについていく気も起きなかった。かなり距離を開けた後、昇降口で傘を手に待つ謙三に追いつくと、深々とため息をつかれる。
雪は粒が小さく、細かく降っていて、地面に触れた先から溶けてしまうようでまだどこにも積もっていなかった。風に流れて服についたものもすぐに水滴になって生地に染みた。なんとなく指でそこを擦っていると、横から傘がかざされた。
人とそんなに近い距離で歩くなんてまっぴらだ。手で傘の柄を押し返すと、更に深いため息が白くなって空気に広がった。
廂から足を出すと、スニーカーの底がぴしゃりと濡れたコンクリートを打つ。
「入ればいいでしょ。寒いのに。風邪ひくよ。ああもう、もういいバカ、バカバカ風邪ひいちゃえ」
「うるせえなお前さっきから何だよ」
文句と紙袋の揺れる音が追ってきて噛みつくのを振り払うように、少し大きく声を出した。横に並んだ謙三が強い視線を向けたのは俺の顔ではなく鞄で、そこに入っているクッキーを睨んでいるのがわかる。長めの前髪が揺れて眉間にしわが寄っているのも見えた。口の中を噛んでいるのかモゴモゴと動く唇が、ふと開いた。
「なんで、良太なの」
教室で、ずるいといった時と同じ勢いの言い方だった。ただ歩いているせいか少し震えて、間抜けな抑揚がついていた。知るか、と返して、また散々言いつのられるかと思ったが、謙三は珍しくそれっきり黙って、足元をぴしゃぴしゃいわせながらひたすら早足で進んだ。途中の信号で止まった時だけ、無言のまま傘を少しこちらに傾けてきていた。俺はやっぱり肩に近づく体温が苦手で入る気がせず、言葉で断ることもしないでいると、青信号に変わった途端にその親切はまっすぐに直った。
たった一つのバレンタインの成果は、結局誰からなのか分からないまま、14日の夜のうちに弟に食べられてしまった。それを謙三に話すと今度は心がないとか何とか長々と言われたが、ほとんど記憶に残っていない。だったらこれでも食べてれば、と言いながら渡された十円かそこらの駄菓子はなんてこともない味だった。誰かの手作りなんか食べるよりもこの方がいい。心なんかもらわないほうが、ずっと楽だ。
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