予期せぬ魔法

 ぐ、と力を込めて開いた冷たい箱には、卵、ヨーグルト、肉、野菜、作り置きの料理を入れたタッパー、その他諸々で上段から下段まで満杯だった。少しの間、隙間を探して目を滑らせるも、どうも腕に抱えた天板が入るほど動かせそうにない。無いに等しい逡巡の後、蓋を閉めて隣の冷蔵庫に取り掛かった。時刻は夜の8時。もう十分だ。

「ロク、悪いけど出てくれる」

 眠りを暴かれて、電灯に照らされた小さい頭がビクッと震えた。扉を開け放って二歩離れて待つ。膝を胸に引き寄せて丸まっていた体が、溶けるように広がるまで、たっぷり一分かかった。キッチンの壁掛け時計がコツコツと指を鳴らす。

 体を冷やしているせいで、自発的でないロクの目覚めはひどく鈍い。意識がまとまらない顔でうろうろと視線をさまよわせるのをみると、少しだけ申し訳なくなると同時に、シーツを洗うために息子をベッドから追い出す母親はこんな気分かとも思った。

「あれ、あれ、もう」

「お早う。もう10時だよ。ちょっとそこ使わせて」

「え、あ、須田さん。え、もう、あれ」

 ちかちかと瞬きをしながら、ロクは冷蔵庫から身を乗り出して、ほとんど転げ落ちるように床に手をついた。名前を呼んだからもう大丈夫だろう。俺は広々と空いたところへ天板を押し込んで、ロクにぶつからないように気を付けながら扉を閉めた。

 仰向けに寝転がっている同居人を見下ろすと、茫然としていはいるものの落ちたショックですっかり覚めた瞳と目が合った。細くて鋭い、照明の光を吸って澄んだ青色の綺麗な瞳だ。

「一時間くらい貸しててくれ」

「どうして、寝過ぎるなんて、そんな」

「まあまあ偶にはあるでしょう。さ、起きよう」

 手を差し出すと、またたっぷり三十秒ほどかけてから握り返してきた。生きているとは思えないほど、氷のように冷たい。吸血鬼でなくゾンビになってしまいそうだ。引き上げると勢いで後ろにひっくり返りそうなほど軽くて、まだずいぶん痩せている、と心の中で思う。

 眠気よりも納得のいかなさが思考を捉えている様子のロクをダイニングテーブルに追い立てて、俺は雑然と広げていたボウルや泡立て器をまとめて水を張った。水道の流れる涼しい音が、耳をすうと通り抜けていく。

 ロクはキャベツを食べなくなった。正確には、キャベツだけを抱えて飯を終えることがなくなった。思い立って説得を始めてから数か月、まずはテーブルで食事をさせることから始まり、キャベツ以外の野菜を少しずつ食べさせている。ドレッシングは相変わらず好きでない。ロクは多くを言わないが、おそらく元々は美食家だ。旬の物、質よく育てられた物によって、食の幅を広げている。これまで手づかみで葉にかじりついていたロクの、フォークを扱う手はとても上品だった。

「ロク、食事にするか」

 振り返ると、ロクは目を合わせて小さく首を横に振った。視線がふっとずれて、シンクとガスコンロを行ったり来たりしている。

「甘い匂いが、します」

「チョコレートムースだよ。冷やしたら完成」

 チョコレートを生クリームと牛乳で溶かし、小さなマシュマロを混ぜた簡単なものだ。ちょうど明日のバレンタインデーに仕事の打ち合わせが入ったおかげで、作り甲斐があってよかった。同居人が食事らしい食事に近づくにつれ、誰かに食べ物を作る楽しさを思い出しつつある。

 ふと、調理台に余った板チョコを置いていたのを見つけて、それを持ってロクの向かいに座る。肘をついて顎を支えたロクは、表には何を思っているか伺いづらいが、じっとチョコレートを見つめている。

「食べるか」

 ひとかけ割って差し出すと、意外なほど早くそれは受け取られた。骨のように白く細い指に挟まれた、幸福な色の塊は、何度か裏表を返されて、やがて牙の奥に投げ込まれた。

 ふ、と開いた空気が、皮膚を撫ぜた。

俺は、たぶん今、ずっと見たかったものを、見ることができている。

 噛まずに、口の中で転がしながら溶かしているのだろう。閉じた唇が大きく、やわらかく動く。時々端から牙が覗く。頬が内側から舌で押されて小さなふくらみを作り、ゆっくりと円を描いて元に戻る。そうして、彼の中に、とろけるような濃い甘さが、じわりと広がった。冷たく凍りかけていた顔が暖かさに緩み、氷に似た瞳が力をほどいて丸く開いた。

「おいしい?」

「う、ん。好き。好きだったん、です。チョコレート」

 自分で確かめるように、何度も頷きながら、ロクはかすかに舌を鳴らした。目の周りが少し色づいて、赤みがさしている。

 俺はずいぶん迷って、今度はもう少し大きく割ったかけらをロクに渡した。すぐに俺の手を離れて、家族のおやつに成ってくれる。ロクの目じりが下がり、うっすらと寄った皺を見ていると、自分の体を巡る血液の温度を思い出さずにはいられなかった。

 きっとこれは、簡単だけどそれだけで終わらない。終わらないでいてくれるかもしれない。向かい合ってする食事に温度がある。命を感じさせながら笑っている。俺はもはや馬鹿みたいに単純に希望にあてられていた。心の奥底に潜んでいた動力が、理由と目的を露わにしてしまいそうだ。まだ、焦ってはいけないと、一人つぶやくことはできるけれど、少し息を詰めでもしたらそんな抑止も忘れてしまう。

 手の中にある魔法の鍵を、いっぺんに渡してしまいたい気持ちと、もっと長くこの熱を味わいたい気持ちが頭の中で盛大にぶつかった。いや、欲を言えば、自分の手を加えたチョコレートムースを彼に。それを食べて尚こんな風に笑ったなら、俺は、この数年見ないふりをしてきた念願にたどり着いてしまう。そうしたら、本当に彼を、彼と過ごすこの場所を、きっと愛して、

「須田さん、まだ8時だ!」

 頭の中できらりきらりと混ぜていた光が、ロクの大きな声でぱっと弾けた。ないがしろにしていた視力でもって見ると、ロクが時計を指さしながら目を見開いている。

「寝過ごしてなくて、よかったな。お前の頭は精密だ」

「そうじゃなくて、さっきは、だって……そんな」

「そんなことすると思わなかった?」

 笑いながら訊くと、何百年モノの吸血鬼はずいぶん幼い仕草でうなずいた。灰色の髪が一瞬広がって揺れる。

「おれを騙す人なんて、そういなかった」

「人間も結構やるもんだって忘れちゃってたか。騙してまで作ったからね、おいしくできそうだ」

 自分の寝床に飛んだ瞳が、複雑そうに滲んだ。ロクの顔の中心にはまだ爛々とした輝きが点っていて、その光の破片が散ってこっちの奥深いところに根付いていく。

 両手を頬にあてて、口に残る甘みを追いかけているロクを横目に、コーヒーを淹れるために椅子を引いた。時計の針はじりじりと進む。いずれ本当の10時を回るが、今日は冷蔵庫は揺れず。俺はまだ、どれくらい大きく笑っていいか、やけに温い体を携えたまま、迷っている。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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