海声
名前を呼ばれたとき、無意識に、手の中の鉛筆を強く握りしめていた。記憶が今見ている視界に混ざりだして、にじみ、ゆがむ。ひどく乾燥した空気の中で、眼球が潤みを呼び戻していく。
戸口に立つ、ただ今日の客であるはずだった男に向かって駆け出したいのをぐっとこらえた。懐かしい顔、姿、声が、胸の中に空気が詰まらせて、深く深く抜けていく。
「生きていたんだね、三田」
「お前も。絵描きは、お前だったんだな、」
まつり。そう呼ばれるのも、もう何年振りか分からなかった。自分の名前を知っている人間が、ずっと傍にいなかったから。
地球が壊れかけている、というのは、何十年にもわたって言われ続けていたことだった。過渡期において世界の大きな動きがどうであったか、人類がどう抵抗し、あるいはどう加速させていたのか。言い訳ではあるが、俺は幼かったからよく知らない。ただ親から言われるままに、地面を、空気を、水を、できるだけ汚さないよう、ささやかなことを続けて生活していた。壊れる壊れると言われるままに大人になり、まだ二十数年の人生の経過の中で地球は明確な事実をもって壊れていった。大きな出来事が何度も人の世をおそい、そのたびに何かが更新され、動くものは数を少なくし、平らかにされていった。何が滅び、何が生き残っているのか、もはや俺のような一市民には知れない。俺に分かるのはせいぜい人間のこと。生まれ故郷の海辺の町と、その周りのこと程度だ。豊かさとは何か、貧しさとは何か、そんなことも曖昧なまま日々を撚り合わせ、引き延ばし、うすく息をして生きていた。
母は、五年前に海に入った。
父はその一年後に。
二人とも穏やかだった。穏やかに日々を過ごし、少しずつ話さなくなって、その姿も白い滑らかなものに変わっていった。月の奇麗な晩に、波音に呼ばれるように一人で往き、海に入って戻ってこなかった。
海にすがり、海に抱かれて延び行くこの町だったから、そんな風に最後を水底に求めるのかと思った。けれど細々と入ってくる外からの話では、ここ以外でも同じことが起きているらしい。
ゆっくり、ゆっくりと、大気から人の声が薄れ、世界が静かになっていく。人々は声を持たない優しい生き物になって、やがて海に入り、地球の奥深くに還っていく。
今や、人がその形をうしなうことはごく自然なこととなっていた。
だから俺は描くことにした。
はじめは、身近な人に望まれて。次第に、知らぬ人にも望まれて。
今の姿を絵に残してほしいと。
この星の細胞の一つになる前、確かだった自分の形を残してほしいと願う人のために。
「ここに立てばいいのか」
三田はおずおずと部屋に入ってきた。一番陽の差す明るい場所に、高い腰かけを用意してある。ここを訪れた時点で、もう二足では立てなくなっている人のために、古いマットレスも。三田は少ない手荷物を端に置き、所在なさげに立ち尽くした。
「好きな風にしてもらっていいんだけど、立った姿で描かれる人が多いかな。服はどうする」
尋ねると、彼は少し緊張したように表情を固めて、服の襟元を握りしめた。色あせて、生地のひどく傷んだ古い服だ。所々に継ぎはぎがされている。
「着たままでもいいんだよ」
「いや、脱ぐよ。体を、残したいから」
三田は決心したようにボタンに指をかけた。自分はそっと視線を外して、スケッチブックと鉛筆の準備に取り掛かる。
新しい紙はなかなか手に入らない。まだ異変のない子供のころにスケッチブックを買いためておいたおかげで、この仕事ができている。物心ついた時から絵描きになりたかった。理想の形とは程遠いが、これも夢がかなったと言えるのだろうか。
ぼんやりと考える間に、三田はすっかり全身の服を脱ぎ終え、腰掛にそっと体重を預けた。
休憩を取りながら描いていくこと、楽な姿勢をとることを彼に伝え、自分用の椅子に腰を下ろす。手を動かし始めてしまえば、とたんにしんと静まり返ってしまう。無声の圧力が膨れそうになる中で、波音が空気をそっと洗い、風を運んでくれる。体の中を血が流れるような、喉の奥で空気が行き来するような、無限と思えるほど繰り返される往来の音。何度津波が押し寄せても、海の傍に人が住み続ける理由がわかる。
三田の体は、均整がとれていて美しかった。この時代なので健康的な肉体とはいいがたいが、筋がのびやかで、確かな軸を持っている奇麗な体だった。
聞けば、つい最近まで踊りで生計を立てていたらしい。
「人の多い街ではまだそういう娯楽を見る余裕があるんだよ。歌とか、踊りとか、演劇なんかをやっているところもある。数は少ないけどな」
「そっか。この町には全然来ないから、知らなかった」
「まつりはまだ歩けるんだから、見に行けばいいさ」
「三田は」
もう踊らないの、と言いかけて、やめた。そんなことは、自分に絵を依頼してきたという事実だけで十分に分かる。
兆候が、あるのだろう。言葉が出なくなってきたとか、悲しみや不安が減ってきたとか、そういう、穏やかなものになる兆候が。
「戻ってきたの」
言葉を継ぐ。
十年ぶりの再会となったかつての友人が、生きて目の前にいる。そのことで大いに膨らんだ心は、もう少しだけと指を伸ばす。
「もう行く当てはないんだ」
三田は応えた。
「もう俺は、食べ物も食べなくてよくなっているから」
立ち上がりかけた気持ちが、ゆっくりとうずくまる。
三田の顔を見る。痩せてはいるが、飢餓にやつれてはいない。凪いだ瞳がじっと見返してくる。海の底を覗く、深い瞳だった。
三田もこの町で生まれ、育った人間だ。だから戻ってきてくれた。戻ってきてしまった。
「うちはもう、家族がいないんだ」
俺たちは、どうして、こんなにも優しい気持ちで、この星に還ろうとしているのだろう。答えるものの誰もいない問いをそっと胸に溶かして、精いっぱい柔らかく微笑む。
「部屋なら空いているよ。だから、三田が良ければ」
三田は一度うつむいた。石膏のようだった表情にほのかに光がともった。
荷物の少ない三田はそのままうちに移り住んだ。
住んでいた町に残してきたものなどなかったのかと聞いたが、男も女も残してきたというしゃらくさい答えが返ってきただけだった。
どれほど続くのかは分からなかった。まだ三田も自分の形を保っているのだから、明日だの明後日だのではないだろう。でもそれくらいのことしか予測はできない。母も父も、気づいてからはあっという間だった。
「おはよう」
「おはよう」
朝起きれば、挨拶をする。そして、少し会話をする。誰かが俺に絵を描くよう訪ねてこない限り変化の少ない日々だから、話す内容だって乏しいが、とにかく何か言葉を発する。
三田との生活は、こんな状況だから四の五の言っていられないことを抜きにしても、好ましいものだった。幼馴染の慣れだろうか。寝起きに顔を合わせても緊張しない。夜寝る前に部屋を別れるときは少し寂しいとさえ思う。ほんの子供のころには、友達が家に遊びに来ればずっと泊まっていってくれればいいのにと思ったこともあった。それがこんな形で現実になっている。世界は壊れていっているのに、俺の望みは少しずつかなっているのがおかしかった。
選ぶほどもない食材を並べてテーブルを囲う。三田は食べなくともよいというが、保存食のひとかけくらいは口にした。お茶を差し出せば飲んだ。同じものを共にする人がいるのは、それだけで日々の密度を濃いものにした。
時々、昔の写真を並べて二人で見た。
小学生や中学生のころならば二人で覚えているものもあった。今は会うこともない、生死も分からない同級生たちを見ては沈黙した。
「三田、覚えてる、この写真」
数日かけて探した、一枚の写真を差し出す。
それはちょうど十年前、三田が町を出る前に一緒に撮った写真だった。まだ髪の長かった三田と、今とそう変わらない俺とが写っている。
「こんなの撮ったっけな。誰が撮ってくれたんだっけ」
「俺の父親じゃないかな。これうちの前だと思うから」
十年どころではない、遠い遠い過去のようだった。写っている二人は今ここにいるけれど、いるということ以外のなにもかもが変わってしまった。だけれどその変化を二人とも口にはしなかった。謂う必要も、ないからだ。
「まつり、泣いてたよなあ、この時」
「泣いてたかな。少しだろ。ほろりとこぼれる程度だった」
「いいや、わんわん泣いてた。俺しか友達がいなかったんだお前。絵ばっか描いてたから」
三田は意地悪そうな顔で笑って、肩を寄せて体重をかけてきた。言い返そうか、その体を跳ね返そうかと思ったが、やめた。こんな時に取り繕っても仕方ないと、少しのあきらめが心を軽く、柔らかくした。
「そうだよ、三田がいなくなってどうしたらいいんだと思った。さみしかったよ」
ろうそくの灯が、とろりと夜をとかして二人の影を一つにする。ただ触れ合うだけの肩が温かい。こんなにも。何年も忘れていたことだったけれど。
写真の端と端を別々の手で持って、思いを巡らせた。同じように並んでいる。当時から時間は連続していま現在までつながっている。その証になるものは、ただ二人がいるということばかり。
ありがとう、と云いたかった。戻ってきてくれて、俺と共に過ごすひとになってくれてありがとうと、心の底から、祈るような気持ちで思った。けれど言えなかった。俺と三田の未来は同じ速度では訪れず、幸福は重ならない。三田がこの時をどう感じているのか、聞けない俺は卑怯であった。
写真をテーブルに置いて、どちらからともなく、互いの肩に腕を回した。影がさらに重なるのを視界の端に認めながら、相手の瞳に揺らめく光を、まつげが触れそうなほどの近さで見つめあった。生まれかける言葉はため息になって落ちては消え、透明な死骸を重ねながら、しがみつくような必死さで見つめ続けた。瞼を閉じられなかった。怖くて、怖くて、擦り切れそうなほど、幸せだった。
ある日、三田が食事をふるまってくれた。
カバンの底をあさったら出てきたというスープ缶と、保存食とを混ぜて温めたリゾット。もったりとした食感と、舌を絞るような塩気がありがたかった。
「こんなにうまいものが作れるなら、来たその日から食事を任せればよかった」
「俺は食わんのだから言う訳ないだろ。ひどい奴だな」
三田の腕はここに来た日と比べてだいぶ細くなった。血管と筋が浮き、骨の形もあらわになって、それでもやはり彼の体はのびのびとして美しかった。
このところは夜寝る時も同じベッドで寝ている。どちらかがそうしたいと言ったのでもなく、ただ近い生き物であったから自然そうなった。絵を描いてくれと訪ね来る人もとんと来なくなった。朝、共に目覚め、波音に耳を澄まし、時々三田の顔などをスケッチした。屋上にのぼり、空と海とをただ眺めた。海に近づこうとはしなかった。陽が落ちればソファに並んで座り、互いの体温を肩や腕越しに共有して、そのまま一緒にベッドに入る。十年会っていなかった間のことを時々話した。夢の話を聞くような心地がした。
三田と自分のにおいが似ていくのを感じる。体温が同じになっていくのが分かる。瞳の色が近くなっていくのが見える。なのに、三田は少しずつ減っていく。
接近していく二つの体は、いつしか、一つの予感でつながれていた。それを口に出さなかっただけ。
「まつり、お前が残っていてよかった」
三田の手が、そっと俺の手に重なる。
「お前のことならいいと思った。この町で、絵を残してくれる人間がいるって聞いた時。願ったよ。だから俺は帰ってきた。ここにはお前がいて、こんなにも、静かだ……」
俺は三田の手を握り返した。ゆっくり、やがて、強く。できる限り強く。
少し、感触が妙だった。俺の手の中で、三田の手は形を変えていきそうだった。そのことに気づいて、三田の顔を覗き込んだ。唇は言葉を放ったままの形で脱力して、少しの隙間に息を通すだけ。瞳は、今まさに、深く、深くに沈んでいこうとしていた。
「三田」
呼びかけても、三田の光は戻ってこない。
胸が、真ん中から裂けてしまいそうだった。
もっと彼の名前を叫びたいのに、痛みに詰まって声が出なかった。震えて馬鹿になった腕で、三田の体をそっと抱いた。力をこめないよう、彼が、彼のまま残るように。
波音が窓から侵入して俺と彼の周りを取り囲んだ。今まで優しいと感じていた複雑な響きの中に、俺は初めて無数の悲鳴を感じ取った。歯を食いしばり、俺もそのか細い轟音に自分の心を放った。部屋はただ、静かであった。
そしてその日以来、三田は話すことをやめて、穏やかにほほ笑むばかりになってしまった。
一週間か、それくらいだったろうか。三田はベッドから起き上がらなくなり、肌の色も徐々に抜けていった。服の中で体が形を変えていき、裾や袖を通すというより、おくるみを着せているような状態になった。俺は時々三田に声をかけながら、夜になれば月の具合を見た。満ちるまでもう幾日もなく、明日には形を完璧なものにして、また俺のもとから大切な人の手を引いて行ってしまうだろう。
翌朝、俺は三田の体をお湯に浸した布で拭いた。丁寧に、すみずみまで。
さいごだから、と言い訳した。俺はずっと言い訳ばかりだったかもしれない。子供だったから、こんな時代だから、うちには家族がいないから。
でももう本当に最後だから。柔らかく滑らかになった三田に、そっと唇を寄せた。三田はうすら目を開けて、静かに震えた。
もうすぐ夜が来る。
俺は三田を浜辺の端まで送っていった。砂浜に下りてからは一人で往かせた。もう俺がいようと、いまいと三田にとっては関係がないからだ。
砂に長く軌跡が残る。ふと見ると、遠くに他にも見送りをしているものがあった。その人たちもやはり砂の端に立って、じっと見送るばかりだった。するすると進んでいく三田は、音もなく波に入り、しぶきを上げることもなくそのまま水底の砂上を歩んでいった。
これは葬儀ではないのだな、と、改めて思った。旅立ちでもない。なんと呼べばいいのだろう。こんなにも自然に、日ごろ事のような別れ。
俺は少しだけ、涙を流した。明日からどうやって生きていこう。同じように生きていくのだろう。いつ自分の番になるとも知れない。その時に見送る人はきっといないが、いなくともよい。そっと、胸元に忍ばせた写真に手を当てた。
形のあるものは少なく、その少ないものすら変化して、すべて失われてしまう。
俺は帰宅し、寝室に入った。壁際に置いてあった三田の荷物を持ち上げると、外のポケットから紙片がのぞいていた。そっと取り出して、丁寧に折りたたまれていたそれを広げると、彼がここに来た日に描いてやった三田のスケッチだった。
こんな形をしていたのだ。三田は。俺の友達は。
あと一つ、二つ、涙を流して、俺はスケッチをまた折りたたんで、胸元に入れていた写真とともに、三田の荷物の中に仕舞った。俺はまだ俺であり、明日も生きていく。
ふと、誰かに、俺の姿を描いてくれと頼んでみようかと思った。
そしてこの家にあるありったけの写真と、絵と、一緒に一つの箱に入れてもらうのだ。
もう誰も見ることはないけれど、自分がいたということを残すために。
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