今日でおしまい
夜の川をさかのぼって、船の汽笛がボーと響いてくる。抱えたラーメンの湯気に顔から当たって暖をとる俺の背中を、水の生む冷たい空気が入れ代わり立ち代わり撫でていく。どんぶりに突っ込んで無視を決めている、が、少し厳しい。
「そんなに急いで食べたら、胸に詰まるよ」
「お前、早く食わないと伸びるぞ、冷めるぞ、まずくなるぞ」
最後の一言で、屋台の中に奉納された石像のような親父の顔がムッと険しくなった。「せっかくうまいんだから」と慌てて付け足すも、阿吽の吽の表情は緩まない。隣の赤帽はそのプレッシャーにちっとも気付かないで、相変わらずのたのたと、麺を追いかけ回している。動作そのものも遅いが、箸の使いが悪いのか、引き上げては汁を飛び散らしながら逃がしてばかりだ。作業着の胸にしぶきの痕がついてしまっている。
「難しい」
「く、ないだろ。レンゲ使え。こうやって箸とで挟んで食えばいい」
「おお、それすごいな。ありがとう」
赤いキャップの下の顔がむにっと和らいで、背中を丸めてやっと口に運べたようだ。ほとんど犬食いだったが仕方がない。ラーメンをうまく食べられないやつは、二十数年生きて初めてだ。食堂で日頃どんな風にしていたか、思い出そうとしたが、赤帽の食事をしている姿が不思議と出てこない。麺をかみしめ、しょう油味の塩分を舌で転がしながら、空白の頭をまさぐった。作業にくたびれた頭は鈍く、スープの旨味ばかりが染みる。赤帽がレンゲをぶつけるガチャンという音がうるさい。
最後にとっておいたチャーシューを口の中でほぐし(これが実にやわらかい)、飲み込んだところでようやく、ぱっと照明が当たったようにいつもの光景が浮かんだ。
「赤帽くん、いつも昼食えてんの?」
「食ってる食ってる。なんで、俺、食堂にいるでしょう」
「いるけど、あれやってんじゃん、占い」
赤帽は「派遣でやってきた作業員兼スピリチュアルボーイ」だ。中年臭さが漂う肩書はライン長による。我らの上司は重度の占い好きで、人を掴まえて星座や血液型を聞いては運勢を告げる趣味がある。占いが得意だという赤帽の出現に、大いに沸いたスピリチュアル中年は、昼飯のたびに彼の隣を陣取ってあらゆる指南を受けている。つられて集まってきた準スピリチュアル人間たちが行列を成すこともあり、ドレードマークの赤帽が禿げに紛れて見えない時もあった。
「飯食いながらやってるから平気」
「ふん。老い先短けぇおっさんが占いなんてよくやるわ」
「言うねえ」
ちょうど、カウンターの下のラジオから、今週の星座占いが流れてきた。店主がいっそう硬い顔で腰を屈める。どうやらボリュームを絞ったらしいが、そのまま上がってこないので頭を寄せて聞き入っているようだ。ああ、二度とここには来られない。
「おこづかい稼ぎだよ。一回五十円。どう?」
「それ食い終わってからな。早く食えよ」
俺の身が落ち着かないのを察しもせず、赤帽は残り三分の一をとんでもない時間をかけて食べきった。「ごっそさん」と声をかけたが、金を置いて丸椅子を引くまで親父は姿を現さなかった。
左を流れる川をなぞりながら、深呼吸をした。冬の空気はあまり深々と吸えないが、固まった背中を反らして体の空気を入れ替えるとそれだけですっとする。右斜め後ろを歩いていた赤帽が「スープの匂いがする」と言って笑った。吐いた息を吸われるのは少し気持ちが悪い。
「うまかったね」
「そうだな。うまかったよ、ちくしょう」
工場近くに屋台は数あれど、美味いところを見つけるのは運だ。美味くて人の多くないところはなおさら貴重なのに、好機をつぶしてしまった自分の口を恨む。川の向こう岸でまだ煌々と明るい作業照明と、そのはるか上にポツンポツンと光る星を見ながら、足先に触れた小石を蹴った。
「どうする、占い」
「こんなとこでできねえだろ」
「できるよ、どこででも。今しかない」
妙な含みの言い方が障り、足を止めて振り返った。赤帽が指で引き上げられていて、いつもの笑顔がよく見える。印象が薄く、顔のつくりが地味なくせに、この笑顔はやたらと残る。
ポケットに手を突っ込むと、数枚の硬貨がすりあって音を立てた。つやつやした穴あきを探り当てて、すでに用意された手のひらに押し付ける。赤帽はお代をズボンの尻に突っ込むと、返す手を伸ばしていきなり肩を掴んできた。
「じっとしてね」
身じろぎしたのを諌めるような口調だった。普段こんな風に占いをしていたか。見ているようで真剣に見ていなかったからどうとも答えを出すことができない。ちらっと視線を流した赤帽は、初めて会うような厳しい顔つきをしている。俺は困った末に真っ黒い川を眺めた。沈黙が長いが、緊張で寒さもあまり感じない。
「ああ、お別れだ」
耳に飛び込んできた言葉が、鼓膜をガンと打った。勢い赤帽に向くと、まだ無表情は続いている。慣れない空気と不穏な言葉が、脳裏にいくつもの暗い未来を見せた。田舎の家族と友達の顔がずらっと並ぶ。
「お別れって」
「そんなに大事じゃない人と、もうすぐお別れするね」
「な、んだそれは」
真剣そうな様子に対し、曖昧で重みのない予言に膝の力が抜けそうだった。張っていた空気が一気に緩む。赤帽は暇そうな方の手でキャップのツバをつまんで引き下げた。
「まあ、人生そう大きなことは、たんびたんび起きないよ」
「それにしてたってお前。別に、いいけどな、所詮占いだし」
「うん、それでもいいよ」
肩に乗っていた手が、肘まで滑って離れていった。何とも整理のつけようがない時間をこの場に捨てて、再び家に向かって川辺をたどる。明日の作業のことでも話そうかと口を開いたが、声を出す前に赤帽が俺のポケットにまとわりついてきた。思わず大声が出る。
「なんだよ」
「やっぱりいいや、五十円」
「いや受け取っとけよ。一応占いはしたろ」
「使えない五十円もらってもさ」
「使えないってなんだよ使えるよ」
常から赤帽が分からなくなることはあるが、いよいよスピリチュアルボーイが極まってきている。押し込まれる手と千切れそうなポケットに危機感をおぼえ、引きはがそうとするが体ごと押し付けてきて離れない。
「あ、あれ、あれだよ。ラーメンの食い方教えてくれたから、お礼」
夢中が過ぎるぼそぼそとした言い方が気味悪く、俺は抵抗をあきらめた。腕の力を抜くと、最奥に銀色の硬貨を落として赤帽はすぐに退いた。
「これでよし、お疲れさん」
早口で言って、赤帽はいつから見つけていたのか暗い土手の階段に向かっていった。肩をすくめているのは寒いからだけでもないだろう。何が逆鱗に触れたのか知らないが、残された俺は胸がやたらと重い。持って帰りたくない類の重さだ。赤帽くん、と呼びかけると、止まらないかと思ったが階段の途中で振り返った。
「赤帽くんの占い、当たんのか」
ただでさえ夜道で、赤帽の立っているところは大きな木が街灯を遮って、さらに闇に近い。真っ赤な帽子が無ければ、輪郭もわからなくなりそうだ。
「当たるんだ。絶対」
少しだけ、大きな声を寄越して、今度こそ赤帽はずんずん足を進めて行ってしまった。
一人の沈黙を持て余す俺を、汽笛の音が促して、仕方なく帰路に踏み出した。不思議に、地面を踏みしめる感触がおぼつかない。酒を飲んでもいないのに妙だ。もっと妙なのは赤帽だ。結局占いをしてから最後まで表情がなかった。明日になったらいつものように、ライン長に絡まれてにこにこ笑っているだろうか。
ぴゅうと吹いた風がやたらと鋭い。不意にせりあがってきた胃の空気を、どうせだれもいないから遠慮なく吐き出す。鼻に抜けた分はしっかりと、つくづく惜しませる匂いをしていた。
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