ラストファミリー
夜10時になって、冷蔵庫がかたかたと揺れ出すたび、鳩時計みたいだなと思う。ロクの体内時計はちょっと人間にはないほど正確で、人間ではないから当然なのかというとそうでもなくロク個人の質らしい。蓋を開けるとキャベツの葉っぱがぼろぼろ落ちてきてつま先に積もった。
「おはよう」
「お、おお、おはよ、う」
「ドレッシングいる?」
「いいい、いや、いい。レ、レ、レ」
「レモン汁?」
「う、う、うん」
紫色した唇がわなないてほとんど言葉になっていなかったが、震えに負けないように大きくうなずいていた。ロクが入っているのとは別の、隣の冷蔵庫から小さいレモン汁の瓶を取って渡すと、膝に抱えていたキャベツに振りかけて食べだした。俺も飲みかけのコーヒーを作業机から持ってきて、開け放した冷蔵庫の前の床に体育座りをする。向かい合っているから、机はないけれど食卓の雰囲気が出る。冷気をため込め苛立つ機械のブーイングと、キャベツの葉が細かくされてはしゃぐ声と、コーヒーをすする音と。家庭の音はいとおしい。
「明日さあ」
「う、ん」
「買い物行くんだけど、ご飯何がいい? キャベツ飽きない?」
「ちょ、と飽きた。けどい、いです。腹にたまるし」
外気に触れて、少しずつロクの震えがおさまっていく。灰色に近かった肌も、なんとなく生きていそうな白に近づいてきた。ロクの本来の食料である血を吸わないものだから、生来の白さが一層突き抜けている。キャベツばかり食べるのもいかがなものか。もっとエネルギーのあるものを食べてほしくて、以前動物の肉を買ってこようかと提案したが、寄生虫がいるからと断られた。もっともだった。
「でも、痩せてない?」
「あんまり変わってない。冷蔵庫入ってればキャベツだけでもあと五年は生きれる」
「五年後どうすんの?」
「……須田さん死体の処理とかできます?」
「できるわけないじゃん、俺は人を殺さないんだから」
「じゃあ、わかんない。五年後なんてわかんない」
何百年も生きてる割に先見のない人だ。人じゃなかった。
吸血鬼を拾った。一年位前のことだ。酔っていたから当日のことはよく覚えていない。翌朝のことも二日酔いが酷かったからかなり曖昧で、発端らしい部分の記憶はほとんど無い。覚えているのは、吸血鬼だと言い張る頭のキているやつを放り出そうとして、反射的に噛みついてきた牙にぐんぐん血を吸われて腕から射精の感覚味わったこと。それから一緒にいたいので置いてくださいと言われて貧血でどうしようもなかったし殺される気もしたからうなずいたこと。普段冷蔵庫に引きこもっているので、存在自体ふとすると忘れがちだが、ロクはいつでも俺を殺せる。化け物の馬力をきちんと備えている。ただ俺が好きなのでここにいたいと言う。
「じゃあ、ほうれん草にしてみるか」
「なんで」
「鉄分が多いから」
「あの、須田さん。おれがなんで冷蔵庫に入ってるか、わかってますよね」
「……ああむしろ近くないほうがいいのか」
ため息をついて、ロクはキャベツに牙を立てた。初日以来一切血液を通していない、ただの象牙質の塊だ。その生き物としての役割を果たさせないまま、ロクは冷蔵庫で一日の大半を寝て過ごし、夜10時になると起きて、野菜を食べる。少し俺と話してまた眠る。
冷蔵庫を置く提案をしたのはロク自身だった。10度弱くらいならば冬眠状態で生きていられるし、その方が腹も空きにくくなる。一緒に暮らす上でベストの選択だと申し出られた。電気代は年の功で貯めたロクの貯蓄から出すというし、血を吸われることに抵抗があった俺はそういうものかと提案を受けた。冷蔵庫は二人で買いに行き、そばでうずくまって見たりしてできるだけ窮屈でないものを選んだ。
野菜を食べては寝てばかりいるロクを見ていると、一緒にいたいと言っておいてこの生活に意味を得ているのか、疑問に思えてくる。そんなこと聞いて逆上されたらたまらないが、一年も一緒にいてしまった。ロクはおとなしい。手もかからない。俺をひどく裏切りも、しない。
「看取りたくはない」
「……うん」
「お前なんか絶対手続き面倒くさいし」
「ああ、戸籍とかないからね」
「大人になってくれねえか。焼いた肉とか食って、普通に生きて、俺の血は吸わないで。そういう分別をつけなさい」
「すごい、無理言いますよね」
一応胃が満たされたのか、ロクは身を乗り出してレモン汁の瓶を床に置いた。腕はかなり骨に沿った形をしている。しかし血の気のない顔が笑っているのを、久しぶりに見た。飯を食わせたくなる顔だった。
「何百年生きたって死ぬまで試しよ。食えよ。明日は」
「それで、狂って須田さんのこと食べたらどうするんですか」
「死体の処理できるんだろ」
日本の場合は、慣れてないですよ。そう笑って、ロクはドアポケットに手をかけて内側へ閉じた。ごそごそと体勢を直す音がして、すっかり静かになった。俺は散らばったキャベツを集めて三角コーナーに投げ、コーヒーを飲んでいたコップに水を入れる。あふれた水がシンクに垂れ、低く反響する音は、きっとまだロクにも聞こえている。二人で聞けば、これは家庭の音だ。だからこれほど、いとおしい。
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