ジンギスカン
出されたお茶がいつもよりも苦く感じるのは、たぶん俺の口のせいだ。負い目と後悔と逆切れまがいの苛立ちとその他多数の悪感情が、胃液を押し上げてきている。早く帰りたくて仕方がないが、じっと椅子に尻を押し付け、萩本さんの指が紙幣をめくり終わるのを待つしかないのだ。
「……最近よお」
「はい!」
「給料減ったんじゃねえのか」
「あ、いえ、はあ、あの」
じっとりと汗ばむジーンズの膝をこすり合わせて、どのような言葉なら穏便に会話が終わるかを全力で考えた。考えれば考えるほど、言葉がクモの子を散らすように頭から逃げていった。待て、おい、どうする。どうだ。どうだった。
「どうだって聞いてんだよ」
「はい! あの、そんなに変わりはない、です」
「ああ、そう」
一瞬にらまれただけで心臓が破裂するかと思った。萩本さん三白眼過ぎてほぼ白目だったが笑うどころかホラーの怖さで余計に精神が追い詰められる。もう嫌だ、帰りたい、と声帯の手前で叫んだが、最後の一枚を弾いた指が薄い札束をひっくり返して裏から数えだした。丁寧にしてくださってありがとうございます。
生まれて三十年。上京して七年。借金して二年。人生の十分の一にも満たないこの二年間、自分の時間を生きる心地がしていない。働いては定額を返すの繰り返しで、記憶のどの項を開いても俺は同じ姿をしている。なので何月何日に何をしていたかを聞かれても正確に答えられる。平日と土曜なら工場で、日曜なら家にいた。毎月二十日は給料袋を持って萩本さんの事務所にいる。
結婚もしないうちから自分の金が誰かのもとへ直で流れていくのを見ようとは思わなかった。上京したというだけで浮かれて遊びまわり、実家に仕送りもしなかったのだ。その日の晩飯も考えず遊んで暮らし、金が尽きかけたら日雇いで何日か働き、また遊ぶ。楽して楽しむことばかりに執着した。やがて働く割合が減っていき、働かなくても楽して楽しみたい気持ちは消えず、飲み屋で知り合った萩本さんに金を借りた。最初の返済日に早速金がそろわない旨を事務所に伝えにいったところ、血まみれの知らない男が蹴りだされてきて生まれて初めて土下座をすることになる。楽しかった日々は、思い出を通り越して夜中に布団を殴る原動力に変わった。
「工場は変わらずか」
「え、ええ、おかげさまで」
あの日、床から上げた顔には、何発かのきつい平手と工場の連絡先がはたきこまれた。選択の余地もないまま、翌日から作業着を着てラインに立っていたので、紹介は実にスムーズだった。ちょっと違和感があるくらいスムーズだったが、初日で二人倉庫に消えて戻ってこなかったので考える暇も必要もなくなった。
工場の給与と利息のレースは首差で給与が勝っているだけで、ゴールは確実にあるのだがどれほど先なのか考えたくもなかった。辞めて別の就職を決めてもいいと萩本さんは言う。ただし約束は二度と破るな、とも言う。最初こそ望みを持ったが、重労働に片手でひねりつぶされた身はあっという間に詰んだ。
「変わらず、キツイだろ」
勘定を終えた萩本さんは領収書にペンを走らせ、机の上を滑らせて寄越した。書き込まれた金額の数字が流れるように綺麗なので、俺はいつもこの一瞬笑いそうになってしまう。しかしすぐ上にある指が謎の傷跡だらけなので頬の筋肉が凍りながら引き下がる。
「まあ、なんとか」
無意味に前後に揺れる頭に、突如鬼の手がつかみかかってきた。座っていなかったら絶対に腰を抜かして倒れていた。
「丈夫そうだがよ、返せねえ体になったらお終いだからな」
きちんきちんと返済している間、萩本さんは結構やさしい。食えてるのかといって千円札を何枚か握らせてくれることもある。返済額に含まれているのかどうかは怖くて聞けない。
返せない体になったらお終い、というのも、その後に大きな続きがあるような気がして、ハイと声に出してはうなずけなかった。
「まあまあ真面目にやってるって聞いてるよ。都合がつくならこっちに来な」
万力のようだった手が開き、頬を軽くはたいて離れていった。帰っていいよと言われて、とがめられない範囲で最大限素早くお辞儀をして事務所のドアをくぐり抜けた。
狭くて急な階段を、一段一段降りる。スニーカーのゴム底がごつごつと当たる音が、後頭部にやたらと響く。すっかり日が落ちて、四角い出入り口で光る蛍光灯の先は真っ暗だった。
電柱を避けながら、歓楽街に入り隅をなぞるように歩く。借金をする前に買ったダウンジャケットはすっかりくたびれて、冬風をすうっと通してしまう。
話をしたくない余りに萩本さんには言わなかったが、工場の給料は少しずつ減っていた。首差だった利息との勝負は鼻差まで迫り、いずれは同着になるかもしれない。その時は。ヒッと喉が詰まって、思わず目をつぶった。考えたくもない。先を見越すにはあまりにも黒い道で、目を凝らすのは恐ろしい。
工場の変化を萩本さんが知らないわけがないのだ。あそこは彼の、あるいは彼らの物なのだから。給料が減り始めてからすぐ、事務所で働く気は無いかと誘われた。気力と体力を削り取られて、平服しきっていた自分の心がぎりぎりで勇気を出した。「いえそれは」と五文字喋るのが精いっぱいだった。萩本さんは金を持ってきた俺にしつこくなかったが、代わりに毎月言われるようになった。
収入は減る。減るごとに、俺の理性はしぼみ、萩本さんの誘う言葉選びが断定の色を強めていく。
ぐるぐると同じところを回る頭で、駅に着いた。改札の前で年賀状の販売をしていて、ICカードを出しながら滲む涙を擦った。未来が、ない。あるわけがない。
ちらっと目にした羊の残像が形を変え、肉にまで解体されていった。ジンギスカン。食ってねえよ。ずっと。
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