誰もいない
大空洞の中の蟻の気分だった。本日のドーム球場の客入りは、座席が半分埋まっているかどうか。密度の足りない空間の中で、ウグイス嬢の声は天井いっぱいに拡散して、ぼやぼやと綿のように形がない。
俺は、さらに人のまばらな後ろの方の座席で、じっと尻を冷やしている。通路から二番目のイス、前後左右は空席だ。肩を丸めて、寒さに膝をゆすり続ける俺をにらむ人間もいない。
皆、後頭部しか見えない。誰とも瞳を合わせて意思を伝えあうことが無い。俺は選手を見ているのでもなく、そもそも野球をよく知らないし、興味もない。望んで試合を見に来ているわけではないのだ。だが俺は、狭苦しい褪せたプラスチックのイスに体を押し込んで、途方に暮れてしまうほどのドームの中に一人でいる。いつでも。いつの、間にか。
「ビール、いかがですか」
薄く耳に流れ続けていた売り込みの声が、突然真上から降ってきて、縮めていた首を伸ばした。すぐ横の通路から、俺が待っていた人間が笑いかけている。あいさつを戸惑っている間に、照明が接触不良を起こして何度か瞬いた。
「下戸だよ」
「知ってる」
低い声が穏やかに言って、売り子の男は樽を下して俺の隣に腰かけた。仕事をしなくていいのか、とは、思っても言えない。男はこの寒さでも、動き回っていたせいか首に汗を拭いている。横目に伺うと、袖口に名札が差し込まれているのを見つけた。ファイトをお届け!船橋。自分で書いたのだろうか、下手な字だ。
「船橋、いつもこのエリアなんだな、人少ないのに」
「そうよ。ただでさえ俺みたいなおっさんからは買ってもらえないのにさ、不遇なんだな。小篠、飲まなくていいから、一杯買ってくれないか」
「持て余すのは嫌だね」
「そこをなんとか」
ぐぐっと腰を屈めて、下から覗き込まれると、胃のあたりがぎゅうと縮む。人になつく船橋の顔は、嫌でないのに俺をひどくうろたえさせる。目を逸らしながらポケットに手を突っ込み、ありったけの小銭を船橋の手の中に押し込んだ。
「一杯にしちゃ多いな」
「チップだよ、とっとけ」
ありがとう、と言って、船橋は素直に受け取った。選り分けて代金分だけウエストポーチに入れる辺りが、ちゃっかりしていて好きだ。
「船橋、好きだ」
2番、ショート、――。
打席に入ったバッターに、周りの観客が注目して空気が前進した。我々はますます取り残される。どうせ知らない選手だ。俺はズボンの膝のほつれに爪をかけながら、舌に残る響きをもう一度震わせた。
「好きだ。船橋」
船橋は返事をしなかった。身動きもせず、俺の言ったことに対して何も返事をよこさなかった。気づけば寒さはすっかりなくなって、俺はこわばりの溶けた手を船橋の腕にかけた。制服のジャージの生地はよく滑り、その下の腕の筋肉とか、骨とかの感触をしばらく確かめた。顔をあげれば、まっすぐ向かった笑顔と目が合う。サンバイザーのツバを屋根にして、覚えていた表情よりいくらか落ち着いて見えた。
「どうせなら、もっと大胆になればいいのに」
ごく普通の、提案をする調子で言われて、それもそうだなと俺は身を乗り出して唇を押し付けた。口を開くのはさすがに悪いと思い、何度か触れるだけのキスをして、ゆっくりと離れた。無意識のうちにつむっていた目を開ける。
途端に、すべてが遠くなる。
これで、船橋の顔がもう一度見れたなら、俺はきっと抜け出せて、二度とここへ来ないで済むのだ。しかし、愛も渡せていないようなキスのあと、船橋の顔はいつも見えない。見ようと思っても、視界がぼやけて表情が分からなくなってしまう。この夜も、そう。
「野球なんか別に好きじゃないのに」
急に頭が重くなった俺に、樽に入ったビールよりも冷たい声が浴びせられた。こうなってしまうことは知っていた。何度も何度も繰り返して、何度も変わる機会があった。なのに、間違いは必ず後から俺に知らせる。だから、分かっているのに、俺はいつも船橋に触れて、その先があるように思い込んで、
「もう来ない、もう来ないから」
許してほしくて、頭を両手で抱えてつぶやいた。声になっていたか自信がない。隣の暖かさがすうっと消えて、サイレンのような音がひどく体を揺さぶった。船橋は野球が好きだった。俺はそれしか知らない。
やっと見えたのは、息のない橙色の星。ただの豆電球。狭い部屋に俺は一人だ。
目が覚めて、仕事に行って、とっくに遠くへ異動した船橋を無意識に探して、そういう毎日の中のたまの一夜。止めていた息を吐くと布団が湿った。次はビールを飲んでみようかと、冷えた心で考えるうちに、目の端から涙がひとつ、流れていった。
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