チャイルドシート

 どうか僕のことを殴って、殴って殴ってください。

 全てのものと引き換えに罰をください。痛みをくれた上で、誰か、それでも僕を捨てはしないと抱きしめて離さないでください。

「木曽さん、今日はどこに行くの?」

「あの世」

 ハンドルを強く握りすぎて指が真っ白になっていた。手のひらが痺れて感覚が薄れてきている。時速は60キロ毎時を保ったまま。とっくにどこかもわからなくなった海沿いの道を、ひたすら走っていた。

「心中かあ」

 助手席の小石川が、ドリンクホルダーにセットしたじゃがりこをつまみながら、しみじみとつぶやいた。

「まあ、曇ってるしね。そんな日和ではあるよね」

「小石川、俺と死ねるか」

「はは、今更選択権ないでしょ。窓開けるよ」

 ガー、と音を立てて左の窓が開き、強い風が吹き込んでくる

。鼻腔を舐めるような潮の匂いがなだれ込んできた。別に外は扇風機じゃないのに「あーーー」と長い声を出している小石川を横目に、ハンドルを切ってぎりぎりカーブをやり過ごした。

 長いこと対向車とすれ違っていない。ちらりと見た時計は16時何分かを表示していた。海と山の間は色のない景色だ。灰色の雲。灰色の道路。重く暗い海と、寒々しい枯れ木の群れ。とても命があるとは思えない風景に目をすがめると、口の中で苦い味がした。

 どうか僕に、痛みをください。足らない僕をうめて、うめて、うめて。

「ねえ木曽さん、どうすんの。そのうち海に突っ込むわけ?それとも山に激突?寒いか熱いかどっち?」

「黙ってろよ、うるせえな」

「なーにそれ、俺の命まで持ってくくせにさ」

「死なねえよ馬鹿!」

 際限なく菓子をむさぼり続けるカリカリしゃくしゃくという咀嚼の音と、唾液の音に耐え切れなくなり、俺は速度を上げた。くそ、口を開けて食べるやつは最悪だ。菓子をつまんだ手を服で拭うのも鳥肌が立つほど嫌いだ。だけど俺はこいつから離れられない。左耳に湿った音が這いよってくる。嫌悪感に涙が出た。

「泣かないでよ、木曽さん、ほら一本あげるから、口開けて。速度落として」

 唇に押し付けられたじゃがりこを頬張って、かみ砕くうちに心のどこかからスルスルとほどけていく。

言われるがままにアクセルから足を離すと、急速に落ちていくスピードとともに、手の力が抜けていった。周りの風景にゆっくり視線を巡らせられるようになったころ、頭上を流れていく青い看板には知らない地名が記されていた。

 崖側に張り出すようにして作られた駐車場に、車を停めた。近くには公衆電話と、崖の補修工事か何かから放置されたのであろうショベルカーがじっと佇んでいる。ハンドルに額をつけて深く深くため息をつくと、隣で小石川が、よくできました、と小さな声で言った。投げやりなようで、強みのないその声に、ようやく脳が緩みきる。

 エンジンの音と低い振動が体の芯を揺さぶった。

閉じた瞼の裏、闇の中にどろりと溶けていく。しばらくの後浮かんできたのは、荒れた部屋の映像だ。足を進めるとフローリングが軋んだ。傾いたダイニング。散乱するごみ。畳の上に投げ出された小さな、小さな頭。

 俺は立ち尽くしていた。立ち尽くしているしかなかった。部屋の主はとっくに引っ張られて行って、周りでは幾人かの同僚が携帯で連絡を取り、どれほどの間が空いたかも知れないがサイレンの音が動かない映像に流れる。小さな頭と、それにただくっついているだけの体が、暗がりの中にただ、ある。ああ、この子供はここがどこかも分からないまま、終わってしまったのだ。何もかもが動かない中、俺の左肩に何かがつかまって、木曽さん、木曽さんと名前を、呼んで、いる。

「木曽さん」

 瞬きをした。いつの間にか額に添えられていた小石川の手が、ゆっくりと離れていった。息を吸おうと口を開けると、離れた手が頬に触れて、左を向かせられる。窓越しの、曇りの光を受けながら、小石川はどこか見下すような目で俺を見ていた。

 向こうの黒い海が、沸き立つようにうごめいている。

「島末さんから聞いたよ、今度の事件のこと」

 誘拐された子、亡くなったんだってね。

 聞き取れる最小限の声で、小石川がささやく。俺は喉を鳴らしながら、薄くつのる吐き気を抑えた。

 救いのない、事件だった。誘拐が発覚してから三週間が経っても、容疑者からはとりとめのない、何を目的とするのかつかめないような連絡が一方的に入るだけだった。ころころと変わる言い分と発信元に混乱し、被害者の家族は日増しにまともな会話ができなくなり、ようやく突き止めた犯罪者は脳が壊れた精神異常者だった。何も残らなかった。命も、法も。

 同僚の島末が、どこまでこの男に話したのかはわからない。警官のカウンセリングを担う小石川は、長く俺がいる署に携わっているが、ほかの人間がどういう風に世話になっているのかは知らない。少なくとも俺は、小石川のカウンセリングを受けたことがない。

「じき、いつもみたいに僕のとこ来ると思ったよ。ひでえ顔して」

「……俺は今、患者なのか?」

「カウンセラーは来る人のことを患者とは呼ばないよ。どっちにしろ、あなたに対してビジネスではないから。でもね、木曽さん」

 言葉が途切れると、小石川の瞳が、ますます冷えた。その冷たさに圧されて目をそらすと、いやにはっきりと鼻で笑われた。

「刑事には、それ相応の精神があるでしょうね、やっぱり」

 わずかに下にずれた小石川の目は、おそらく俺の上着の内ポケットを透かして見ていた。そこに入っている手帳は俺のすべてであり、俺自身を成しているものの具現だ。それをひどくくだらないものを見る目で、小石川は軽んじる。

「……遅かったんだ、足りなかったんだよ。また」

「あなたが悪いわけではないでしょう。木曽さんがいなけりゃもっと遅かったって、実際何人か言ってましたよ」

「でも結局死んだんだよ!被害者が!」

 耳の奥が膨張して高い音が鳴り続けている。事件の終わった日からずっと鳴っている。

 俺はこの耳鳴りをどうにかしてほしくて、小石川のところに来たのか。そんなはっきりとした目的はないのか。もう自分にも分からなかった。耳が痛い。胸が、重い。

 無謀な俺の怒声は目の前の男のそばを通り過ぎていっただけのようだった。頬にあたっている手が嫌に生ぬるく感じて、振り払った。激しい音がしたものの、重ねて落ちてくるため息はこの上なく薄い。

「僕、前から言ってるけど、どんなにあなたが有能でも、全部助けるなんて無理だよ。神経すり減らすだけ。思い悩んで仕事に余計な支障をきたしたら、それこそ木曽さんのストレスになるんじゃないの?」

「うるせえ!助けられないことが一番の苦痛だ!だから俺は、俺が全部やるって思わないと、ダメになっちまうんだよ!」

「思想は立派だよ。でも、現実を見るべきだ。あなたはただ目つぶって走ってるだけじゃない。潔癖症とヒロイズムを両輪にしてさ」

 小石川が言葉をつのらせるほど、頭にのしかかる空気が負担になっていく。全身がちぎれそうな錯覚に耐え切れず、頭をがしがしと掻いた。爪の間に血がにじむ感触がした。

 何遍も経験した、暗さだ。自分の手が何にも届かない、やっと見えた光があえなく消えていく幻惑。俺には何もできない。僕は足らない。足らない。

 許して。

「……いつもそうだ。俺が絶対に助けたい人は助けられない。俺は、俺は傷一つ負わないで、生きてるのに」

「肉体的に犠牲になることが目的の仕事じゃないでしょ」

「小さかったんだ。きっと何もわからなかった。ただ怖かった。大人が誰も行ってやれなかったんだ」

「木曽さん、あなたじゃない」

「俺は、何も、できなかった。また」

「もう、いいよ、しゃべらなくて。バランス、とってあげるから」

 目をおおわれて、本当に真っ暗になった。すべての感覚があいまいになっていく。エンジンが切られて静かになった車の中で、ネクタイがほどける音が脳を溶かして、かき混ぜた。

 闇の中に再び部屋の光景を見出しそうになったとき、耳元で促されるのにしたがって、ひたすら小石川の名前を繰り返しつぶやいた。体の上にある他人の体温にしがみついて、男の名前すら塞がれるころには、もう俺は、俺でなくてもよくなっていた。

 胸のあたりに冷たい風が吹きこんで、意識が浮上した。

 瞼を開けると、ダッシュボードに肘をついて煙草を吸う男の影があった。すっかり夜の真ん中にいるようだ。

「服、ちゃんと着せろよな」

「あら……きれいなもん見てたかったの、なんて」

 小石川が笑いながら煙草を押し潰した。見てもいなかったくせに何を言うか。まだもやがかかる頭で、ワイシャツのボタンをはめていった。指先の動きが鈍い。

「帰り、運転しようか?」

「いや、いい。出るぞ」

 さしっぱなしのエンジンキーを回すと同時に、シフトレバーにかけた左手が手首からつかまれる。

「ごめん、帰る前にさ」

 普段よりも、ほんの少しだけ早口な言い方に、動きが止まる。静かに張り詰める空気に黙り込んでいると、小石川が室内灯のスイッチを入れた。橙色の明かりが落ちて、男の顔が柔らかく見える。

「木曽さん。本当に、刑事やめてくれないかな」

 小石川の表情はあくまでも穏やかだった。穏やかなように見えた。しかしそこには、見たこともない厚みがあるような気がした。

「お前には悪いと、思ってる。だけど」

「違う、そんなことじゃない。さっきも言ったけどこれ、俺の仕事にはできないんだ。あなたも大概勝手だけど、俺はもっと、勝手なんだよ。もう、わかってよ」

 視線が、合う。真向いの平行な位置に目がある。小石川はいつも、少し離れて、そして少し上から俺を見下ろしていた。意図的に合わされたお互いの立場に、俺はひたすら返す言葉に困った。

どうして、俺のところまで降りてきたんだ。

知らない人間を相手にしているような、あるいは、懐かしい人と会っているような、判別のつかない感情でいっぱいになって、小石川から目が離せない。

「……無理だ」

 半開きの口から、押し出されるように声が落ちる。

「俺はまだ、あそこにいないと、何も終わらない。何もなくならない。途中なんだ、全然、俺はまだ、抜けられないんだ。まだ、ずっと」

 意味のある文章を組み立てられないままだらだらとつなげる俺を、目を閉じる瞬間まで小石川は見下さなかった。数秒閉じた瞼がまた開く時に、彼は少しだけ笑った。

「……、そ。わかった。いいよ車、出して」

 左手を抑えつけていた手が離れる。

 俺はうつむいて、手足を使って車を動かした。

 暗い道と、空に広がる灰色の雲の中へ、ゆるりと入っていく。

「懲りずに、来てくださいよね」

「……嫌じゃないのか」

「だからさ、勝手なんだって」

 地名の分からなかった看板を裏から通過して、また延々と続く山の曲線をなぞりながら、帰路を進んでいく。

 繰り返すカーブの合間に、俺は自分の体が確実な体積を持っていることを感じていた。外を向いたきり黙り込んだ小石川を、やはり俺は、離すことができない。

 手のひらにかいた汗をドアポケットに入れていたハンカチでぬぐった。馴染みのある手触りが、生活に戻りつつあることを、ただまざまざと思い知らせていた。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

0コメント

  • 1000 / 1000