飲める、水道水

 夕方の5時を告げるチャイムが轟々と響き渡った。街の至るところにある、拡声器のようなスピーカーから放たれる音は耳に痛いほど大きく、子供の頃から苦手だった。解散の合図、世界が暗くなる教え、夜になるとお化けが出ます、先日変質者が出ました、黒い車に近づかないように、夜は恐怖の塊で、その始まりを告げるチャイムは俺を必要以上に追い立てた。

「デカイっすね、音」

 隣を歩く尾道が空をグルグルと見回す。人差し指を差し向けて「あそこだ」と示した先には、背の高い支柱の先にごちゃごちゃとスピーカーがくっついていた。

「治安のいいとこじゃないからな。子供を早く帰したいんだろ」

「まだ明るいですけどねぇ」

 尾道がのんびりした声を出している間に、俺達の脇を小学生が何人もバタバタと走り抜けていった。声をあげながら競って駆けていく背中を見送って、尾山が笑う。

「偉いなぁ、ちゃんと帰るんだ」

「学校からも知らせが出てるんだと。また何か、夜中にあったらしいから」

「ああ、息子さん情報ですか」

 む、と口を閉じて、尾道の顔を覗きこんでみる。細い目はもう笑ってはいない上、あまり穏やかな色をしていない。

 無言で見つめ続けると、しまった、という様にぎゅっと目をつむって、片手で顔を擦った。買い物袋がガサガサと音をたてた。

「すいません、言うつもりじゃ、」

「いや」

 尾道から目をそらして、いつの間にか止まっていた足を動かした。

 息子は小学四年生になる。妻と二人で、隣の町に住んでいる。

 別れて暮らすようになったのは、もう八年も前だ。まだ息子が物心つくかつかないかの内に、俺はダメになった。家族と共にする生活の全てにズレを感じていた。

 発端がいつなのか、何が元なのか、正確に言い切ることはできない。子供が生まれてからかもしれないし、結婚してからかもしれない。あるいは妻と出会った時か、もっと以前、俺自身が子供の時にはもう始まっていたのかも知れない。

 得体のしれない違和感だった。説明のしようもなく、言葉にもできない何かが、年を経るごとに膨れていって、俺の生活を苛んだ。息子をあやす妻を、何気なく見ていたある日、それは明確な「恐怖」として形になってしまった。その日は、とても綺麗に晴れた日だった。

 それからのことは、あまり細かには思い出せない。思い出したくもない。俺は家族から離れることに全力を注いだ。毎晩妻に頭を下げて離縁を頼み込んだ。理由を聞かれても答えられない俺の頭の上で、荒く鼻をすする音がなんべんでも繰り返された。しかし俺は最後まで、妻の涙さえ見ることができなかった。

「あと、六年だ」

「……」

「中学を卒業するまで」

「……知ってます」

「悪かった。俺も、軽率だった」

「あ、や、まらないで、ください」

 右手がじんわりと暖かくなった。

 人の通りはほとんどなくなったが、まだ辺りは人が判別できるくらいには明るい。その中を、二人の男がそれぞれスーパーの袋を下げて手をつないでいる。俺は、尾道の、正しいのかわからない優しさを正視できずに、ただ前を見て歩いた。

 一回りも年下の尾道がアパートの隣室に越してきたのは、半年ほど前だった。何の偶然が重なったか、いつの間にか俺のそばにずっといると言ってきかない。四十を目前にして男から好かれることは奇異ではあるが、拒むほどの「張り」が俺にはなかった。

 子供の義務教育が終わるまで、籍を抜かない。数カ月に一度、息子には会わずとも、妻の話を聞く。たったそれだけの条件で、妻は俺を出してくれた。八年の歳月は夫婦という言葉から色を抜いた。実質的には金銭だけの、しかし世間話で間が持つ程度の、細々としたつながりだ。

 かつて慣れた過去は完全に断てず、いま与えられる安寧に肌をすり合わせる。何もかもがやさしいと感じている。

 俺は誰にも許されて、俺だけがいまだに、なにかから目を背けて生きている。

 空が太陽の赤さをなくして、青く傾いていくころに、単線電車の高架下の影に入った。

 後ろから自転車のライトのモーター音が近づいてくる。

「尾道」

 じわりと汗ばんだ手を、派手な動きにならないように引いた。見られてはいけないと、ただ焦って。

 しかし右手はより強く、逃がすまいとするように力を込めて握られた。とっさに見た尾道の横顔は、影の中で目だけが小さく光っていた。

「……」

 歩幅を小さくして進む二人の横を自転車は何事もなく通り過ぎていった。俺たちよりも早く高架を抜けて、少し朧気な女の背中が、振り向きもせずあっという間に離れていった。そのあとを追うように、街灯が明るく連なっていく。

 足はやがて止まってしまった。尾道がこちらを見ずに、ますます暗くなる辺りの空気に紛れて形をなくしていくのに、俺はまた何も言うことができない。

 何を、考えているのだろう。彼も、自分も。

「……あの、瀬ノ尾さん」

 ひどくかすれている、若い声に呼ばれた自分の名前は、自分のものではないように感じた。持て余しながら、ん、と声だけ返すと、つないでいた手が離れて、そのまま右の二の腕をつかまれた。

「俺から、俺からは、逃げないでください」

「……え」

「ごめんなさい、こんなこと言ってもきっと、あなたの負担にしかならないでしょうけど、でも、俺から逃げないでほしい」

 ばくばくと急激に心臓が高鳴った。

 逃げないでほしいという言葉は、俺の心の底を引きはがそうとするほどの力があった。体の中で圧力が高まる。それはこの八年忘れていた、ありとあらゆる感情だった。

 瞬間的に、ダメかもしれないと、思った。

 この圧力の一部に負けて、俺は大事なものから手を離した。その事実も抱えられずぼんやりと生きてきた俺には、あまりに鋭い制約だった。

 頭より先に体が動きそうになり、無意識のうちに腕を振りほどこうとした俺に、尾道がさらに言う。

「あなたが、好きなんです。俺は。瀬ノ尾さんが思ってるよりずっと、ずっと、あなたから離れたくないと思ってます。だから、それをただ、知っていてください。知ってるだけでいいから」

 尾道の声は、とても静かだった。不意に、遠くのほうで踏切の警報器の音がした。五時のチャイムよりもはるかに柔らかく、単調な音を二人で聞いた。やがて、頭の上を電車が激しく揺れながら走っていった。

「……知っているだけで、いいのか」

 わずかな明かりの中、尾道が深くうなずく気配がした。

「知ってるだけで、なんの……」

「何にも、なる必要はないです。瀬ノ尾さんがいるってことが、今の俺の、はじまりで、おわりです。俺にとっても、それだけです」

 警報器の音が止んで、俺は、下唇を強く噛んだ。

 ふと、尾道がいまどんな顔をしているのか無性に知りたくなって、ゆっくりと腕を引いて歩き始めた。

 長くいた高架下を出て、街灯の下まで無言で歩いていき、振り向いてみると、ひどくやさしい顔で、尾道は微笑んでいた。なにものの存在も感じられない、ただの笑顔がそこにあった。

 俺は目いっぱい、意図的に目をそらしてますます歩いた。地面がやけに硬く足の裏を押す。風が吹いて、毛先が顔に擦れて、こんなに髪が伸びていたことが急に悔しくなった。

「あの、瀬ノ尾さん」

「まだなにか」

「でもね、もし逃げたくなったら」

「言うなよ」

 続く尾道の声は変わらず静かで、穏やかだったが、その先を続けてほしくなかった。突き放すような言い方をしてしまったが、しばらくの無言の後、はい、と笑いをこらえるような返事が返ってきた。

 塞がれた、と思った。自分の中にぶち抜いた穴を、一回りも下の男に塞がれてしまった。おかげでやけに感覚がはっきりしている。これから俺の中に、様々な重みが堆積してしまうだろう。すべてがいいほうに行かず、悪いほうに行くのかもしれない。妻のことも、子供のことも。今はまだ、空の体で、ひたすら家に向かった。

「夜は出歩かないんだ」

 少し息が切れてきたが、早めた歩調のまま進んでいく。

「暗いから。でも、夜しかやってない、あの高架の近くの屋台、うまいって」

 二の腕にあった手が滑り落ちて、再び手を握られた。しっかりと、互いの四本の指と親指が組み合わさる。

「行きましょうよ、一緒に」

 ああ、弾むような声が、うるさい。もっと聞いていたい。

 声も出せずに何度もうなずいた、情けない素振りの俺を尾道が笑う。

 一度、見上げた夜空はどろりと黒く、底の知れない闇だったが、思ったよりも恐ろしげなものではなかった。近くにあると思っていた、恐怖の塊が、今はどこかへ行ってくれているようだ。

 眠気を誘うような、かすかに楽しいような夜の中、俺はそれはそれは下手くそに、笑った。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

0コメント

  • 1000 / 1000