墜落した僕ら

 からからからから。木の棒で地面を引きずりながら、狭い建物の中を歩き回った。

 ひんやりとした空気が肌をぺたりと撫でて流れる。ここは、何年も前に火事で焼け落ちた小さな廃工場だ。残ったコンクリートの箱の中はいつも湿度が高い。ぼろぼろに割れた、高いところにある窓ガラスはどうしてか日の光を差し込ませず、今のような真昼間でも、俺が引きずっている木の棒が軌跡を残しているのかどうかさえわからない。低いところにある唯一の光源は、白根がうずくまりながらいじる携帯電話の液晶だった。

 画面と顔がいやに近い。濁ったメガネのレンズに、二つに分かれて白根が見ているものが映っている。微妙に動く暖色。そうでなくてもひっきりなしにスピーカーから漏れてくる悪霊じみたうめき声に、みぞおちから寒気がわいてくる。

「キモいよ、お前」

 ますます湿度の上がる雰囲気をどうにかしたくて声をかけてみたものの、白根はほとんど無反応だった。から笑いのような、ため息のような吐息が落ちただけで、食い入るように見つめる姿勢は変わらない。

 何だろう。どうしてここにいるんだろう、俺は。

 からからからから。ドアが吹っ飛んで、ただの出入り穴になった戸口に近づく。上半身だけ外に出してみると、目が痛いほどの日光が降ってきた。視野をぎゅっと絞りながら見上げると、おびただしい緑の隙間から見えた空は、嘘みたいに青かった。

 夏が始まっている。

 粟立つ心臓。あまりの恐怖に、体ごと落ちていきそうだ。

「行光、お待たせ」

 ものすごく遠くから呼びかけられたような気がして、思わず息が止まった。振り返ると白根が何かごそごそしながら立ち上がっているところで、少しだけ吹いた風に、自分がひどく汗をかいていることを知った。

「荷物とってくれる?カバンごとでいいから」

「……自分で取りに来いよ」

「は、ケチ」

 寝言みたいにぶつぶつ言って、髪の毛をかきむしりながら、白根がこっちに向かってくる。足元がやけにおぼつかない上、制服のズボンをつまんでパタパタと動かしている。

「テッメ……、服ん中で出したんか」

「そうだけど。悪い?」

「悪いっつうかキモい。マジで無い、さっきから」

「どうせ全部燃やすんだから良いんだよ」

 建物の外壁に寄せておいてあった二つのカバンのうち、自分のリュックサックを手に取って、白根は深々とため息をついた。暑い、とかなんとか言いながら、およそ同じ年とは思えないほど白くて、水気のない腕をさすっている。なんとなく俺も、自分の腕の同じような場所をさすった。見なくてもわかる、日焼けしきって、太く太く鍛えた腕だ。

 中学校に上がるまでは、白根も俺も似たような体だった。家にいる分量と外にいる分量がおおよそ同じくらいで、体力もさほど変わらず、何なら足は白根のほうが速かった。

 進学して野球部に入ってからはとにかく部活ばかりやっていたから、走馬灯のような三年間と高校に上がってからの一年半、その間の白根のことを俺は知らない。ほとんど顔を見ることもなく過ごしてきた。小さな町の中で幼稚園から今まで同じ学校で過ごしてきたが、そんな奴はたくさんいるから家が隣りだってなんだって知らない。

 時々、こいつじゃない、誰かの大きな声は聞こえてはいたけれど。

「あー重かったなー!ここまで持ってくるのほんとだるかったー!」

 空っぽの建物の中に声を反響させながら、白根はリュックの口を盛大に開いて中から大量の雑誌を取り出した。ページが折れるのも構わない様子で、ボンボンと投げては山にして積んでいく。虫をいじめるような仕草と、古臭いメガネとぼさぼさの頭がひどく合わなくて、少しだけ目をそらした。

「これさあ、全部おれのじゃないんだよ?持ち出すのだけでも超大変だったんだから。誰もいない時にちょっとずつ部屋に運んで、この中に詰めてたの。結構早く満杯になったんだよね。なくなったらどんどん新しいの買ってくるからさ、ほんと馬鹿。全部でいくらするんだろ」

 無駄遣い!

 吐き捨てるような声と、最後の雑誌を叩き付ける平べったい音が、鼓膜を打った。

 こんなにしゃべる奴だったか。そうだったような気もするし、そうでなかったような気もする。正直なところ覚えていない。12歳の白根と17歳の白根が違っていても当たり前だ。中途半端に背だけ伸びた白根は、今までの興奮が消えうせたように、じっと、立ち尽くした。

「それ、誰の?」

「……」

「なんでお前が捨てんだよ」

「……聞きたいの」

「別に」

「じゃあ、言わない。ライターちょうだい」

 ポケットに手を入れて、薄いフィルムと一緒に入っている、冷たい百円ライターを握った。

 白根に、渡していいものか。腕が重くてやすやすとは渡せない。だってこれは俺の、俺が、俺のために。

「早くしてよ」

 うつむいていた首を持ち上げて、白根がじっとこっちを見る。どうしてこいつは、こんなに顔色が悪いんだ。

「やっぱり渡さねえ。誰のなのか、何なのか話して」

「は?嫌だ言いたくない。いいから早くちょうだいって」

「俺のライターだから。なんで話せねえんだよ。自分の家から持ってきたんだろそのエロ本」

 とたんに、口の中で金属が弾けるような衝撃と、ひどい鉄のにおいが鼻にまで回った。

 ぶれた視界は一瞬で戻り、瞬きをしてピントを合わせていくと、白根は丸めた体の下で俺の顔面を殴った拳を押さえていた。人間を殴ったことなんかないくせに。いたいいたいと切れ切れに繰り返される声を聴いているうちに、心が隅のほうから乾いて白くなっていくのを感じた。

 既視感に苛まれながら、口にたまった唾液を吐いて、ゆっくり白根の肩を踏んだ。棒切れみたいな腕が何回かばたついて、払いのけようとしてきたが、その動きは死にかけの昆虫みたいで格好悪かった。

 荒い息の音と、地面を擦る音が、天井の高い限られた空間の中に広がっては消えていく。外はまた夢のなかみたいに明るいだろう。ここは夜中みたいに暗い。真っ暗だ。白根のワイシャツだけが浮いている。

「……行光」

 つぶれた頬で、白根が呼ぶ。抵抗をやめた彼は、ぱたりと手のひらを冷たい地面につけて、青く汚れた声で言った。

「バット、燃やしてあげるよ」

 つむじの位置がわからない頭を見ながら、奥歯に力がこもった。

「余計なお世話だよ」

「そのために買ったんでしょ。煙草なんか吸うためじゃないでしょ」

 駅前の喫煙所で、ソフトケースの煙草の包装がうまく開けられなくて、まごついているところにでかいリュックを背負った白根が通りがかったのは、今朝のまだ日が昇らない薄闇の時間のことだった。とっさに声も出なかった俺と、何年振りかに目を合わせた白根は驚く様子もなく、ただ笑って、ついてきてよと言った。

「知らねえだろ、俺のこと」

「知らない。行光もおれのこと知らないよな。けど、今、おれたち、同じだ」

 踏んでいた足をどけると、白根はゆっくりと仰向けになって、今朝と似たような何の温度もない顔で笑った。

「ね、さっきの棒どうした。ひこずってたやつ」

「……わかんね、どっかやった」

「あの棒で、おれのこと殴る?」

「お前、何言ってんの」

「行光」

 笑ったままの、白根のこめかみが濡れる。

「どうしておれたち、こんなところにいるんだろうね」

 カアン、と、バットがボールを打ち返す音が、聞こえたような気がした。

 瞬間、眼球の中によぎる、遠くの空と、走る姿と、流れていく土と白いライン。近づく、薄いひし形。動く足。汗のにおい。

「ああああ!」

 たまらなくなって、白根の体を思いっきり蹴り飛ばした。

 二回か三回、肩の骨がスニーカー越しにつま先とぶつかる。人の体を蹴るのは痛い。ひどく寒くて、痛い。

「痛えよ、行、光」

 視界に暗闇が戻ってきたとき、白根は自分の体の左半分を抱くようにして、戸口から差し込む光のなかで、斜めになって転がっていた。俺は「それ」から、二、三歩、足が崩れていくように離れて、明かりの届かないところで倒れこんだ。

 黒々とした頭痛にぐるぐるとかき回される。息を吸うと、土埃や血のにおいに混じって、どこか新しいようなにおいがした。

 夏が始まっているのだ。風にざわめく葉の音がして、虫や鳥がぎちぎちと硬い声で鳴いている。こんなに冷えている外では、ゆっくりと、確実に、夏が。

「も、う、いやだね。早く、燃やそう」

 咳をしながら、白根は右手で体を支え起こした。何かが抜け落ちたようで動けない俺の横を、するような足音が通っていく。目を強くつむって、吐いた息が、血なまぐさかった。

「服だけなんだ」

 雑誌の山の上に、野球のユニフォームを覆うようにかけた。バットとグローブはカバンの中に残していある。目にしただけで息が詰まって、触ることもできなかった。

 躊躇する俺に、そう言って弱弱しく白根は笑った。少しだけ決まりが悪くなりながらうるせえよと言うと、今度はふふ、と喉を震わせて、頭をゆるく振った。そういえば、今日会ってから初めて、嫌味のない笑いを聞いたような気がする。横顔を覗き込もうとしたときに、カチリという小さな音がして、白根は手にしていた紙の切れ端に火をつけた。

 あ、と思う間もなく、赤い光は紙とユニフォームの上に落ちていった。数秒の間、消えそうに明るさを減らして、やがてじりじりと燃え広がっていく。白は茶色へ。青は灰へ。赤は黒へ。

 ぼろぼろと穴が開くように落ちていく山を見つめていた。頭の中には何も浮かばない。顔が少し熱くて、瞬きを繰り返していると、左手に冷たい手が触れた。

「ゆきみつ、ごめんね」

 ひどく不明瞭な、こどもの発音だった。

 大きくなっていく火から目が離せないまま、冷たい手を握りしめた。もう雑誌はあらかた燃えて、俺のユニフォームもぐずぐずの塊になっていた。あ、母さん、これ何回洗ったんだろう。

 左の鼓膜が揺れる。隣で、肩を震わせながら白根が泣いていた。手もぶるぶると震えて、力が込められた分、俺も同じだけ力を込めて握り返す。爪が食い込んでいるけれど、痛くない。

 俺はどうしてここにいるんだろう。白根はどうしてここにいるんだろう。

 どうしてこんな大量のエロ雑誌を、家出をするように持ち出して燃やしているんだろう。

 どうして俺は、いつまでも走り回れると思っていたグラウンドにいられなかったんだろう。五年ぶんの俺が、カスになって、燃えていく。

 違う星にいるようだった。だれも来ない、俺と白根だけ、どこからも切り離されて、逃げ込んだ箱に乗って漂っている。こんなに近づいて、何も知らないままで。火はやがて燃え尽きるだろうし、帰らなければならないところもあるのに、出口が遠い遠い小さな点にしか見えない。まともな大きさの、たった二人の、手だけが、ひどく小さく感じた。

 夏が始まっているのだ。そのことから、俺は、どこまでも離れていきたかった。ただ、どこまでも。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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