ただいま
カランカランと大きなハンドベルの音が鳴り響いて、目を覚ました。青と茶色のにおう干し草をかき分けて這い出すと、そこは一面菜の花が咲く原っぱで、子供の描いた絵のような風景に僕は目を痛めつけられた。
「さっさと出な。お荷物野郎」
トラクターの運転席から、心底嫌そうな声が投げかけられる。ズキズキする目をこすりながら荷台から降りるのに手間取っていると、ため息と唸り声がまた僕を追い込んだ。
久しぶりに足を下ろした地面は、ゴツゴツしていてとても冷たく感じた。太陽の光に温められているはずなのに、小さいながらも存在感のある小石が、靴底をつつくように押し返す。体中についた細かな藁を払って、辺りを見回した。風もないようなのに、黄色い波がゆれる。強い、強い色だ。
「ここは……」
「ここでいいんだろ。お前の言ってた通りの場所だよ。元、六区五番街」
乾物のような足で道の端まで歩いてみる。菜の花たちが一斉にこちらに、見知らぬ来訪者に視線を送ったような気がして、僅かに息をつめてうつむいた。密集する緑の根元、そびえる植物の門から、黒い点がちょろりと出ては曲線を描いて戻っていった。
頭がぼうっと膨らんでいく。強い日差しの中に、僕が蓄えてきたものが音もなく放出されて、残った容器が空っぽになっていく。目を閉じても離れない景色。ここは、綺麗だ。たくさんの花と、空と、小さな生き物の世界。
「だから無駄だって言ったんだよ。わかったか病人。ここはずっと昔から畑で、人なんか住んでたのは百年も前だよ」
運転手はぶつぶつと文句を言っている。苦々しげな声を耳に通しながら、遠くの山を見つめた。懐に入れてある写真と比べなくても、寸分違わない懐かしい輪郭が、視界の端から端まで通っている。
「おじさん、車に乗せてくれ」
「ふざけるんじゃねえ! こっちにだって仕事があるんだよ!」
「あなたの行くとこへ向かってくれればそれでいい」
よそよそしい陽気を諦めて、僕は小さなトラクターに近づき、助手席のドアを開けた。
スプリングが少しだけ飛び出しているシートに腰掛けて、外で吸った息を吐き出す。吐き出す。男は腹を揺らしながら僕を罵倒した。出ろ、と言いながら掴みかかられ、肩の骨が少しきしんだ。頬に飛んできたつばを拭いながら、首を傾けて男の手に舌を伸ばした。
とたんに静かになった車の中。僕は疲れた体を左へ捻って、手を差し伸べながら、泡のたまった男の唇を舐めた。牛の匂いがする。
「僕の肌に触れて」
ひび割れたような、シワだらけの手を服の中に招き入れながら、固くだらしない体をなぞる。むせ返るような春の空気の中で、僕は自分を運ぶ道を作り始めた。
ここは知らない場所だ。今がいつなのか、自分がなんなのかわからない。ゆりかごを失った世界で、太った老人の唾液と汗を産湯に、もう一度生まれるしかなかった。
やがて、ガタゴトと揺れながらトラクターは走り出した。半分しか閉まらない窓ガラスから、風と一緒にかなたで鳴いた鳥の声が滑り込んでくる。それはまだ僕の開けきっていない記憶の底にあるものと同じだった。しかしどれもこれも、時間をかけて揺られているうちに、全て等しく、溶けて、なくなってしまった。
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