3R

 薄汚い犯罪者も、コーヒーカップを持つ手は白くて綺麗だ。

 青山さんのお気に入りの喫茶店の定位置でいつものように彼が日光を斜め後ろから浴びている。冬の光が強くて、輪郭や薄くて長いまつげが少しぼやけて見える。薄い頬、真っ直ぐな鼻、なめらかな額、耳から穏やかに伸びる首筋。今日の青山さんは伏し目がちで、彼の優秀な仕上がりのパーツを、視線に脅かされることなくまじまじと観察することができた。

「あんなに肉の少ない妻でも、やはり感触は鈍かった」

 唇からほとんどカップを離さずに青山さんはしゃべり続けている。まだ三分の一ほど残っているだろう液体の黒い黒い底を覗き込む黒い黒い瞳。大きな手は、手首から先が固まってしまったようで、不自然に震える。青山さんの目に映り込む白いカップのフチも時々不安定に揺れて、違う形をなしているように見える。おそらくそれは、彼自身が底の向こうに見出そうとしている、白い白い記憶だ。

「骨まで届かなかったんすか?」

「……届かなかった。どうしても、筋肉や皮下脂肪が間にあるみたいでね。俺の指の、ここんとこの骨が、妙に柔らかく沈んで、何かに受け止められているようだったよ。中で、血管か潰れているような感じがした。その瞬間に血が弾け出すのを見たような気がする」

「それは、気のせいでしょ」

 青山さんが指差した、彼の指の付け根のところは、細かなかさぶたがたくさんできて広く変色していた。擦過傷ができるパンチってどんなだよ。俺は視線を外して、忘れかけていたソーセージにフォークを刺した。

「どこを殴っても柔らかかったよ。あんなに固くなるように絞ったのにな」

 犬歯で皮を破ると、小さな音と一緒に肉汁が飛び散った。冷めてしまったけれどうまい。奥歯で再びミンチになっていく肉を感じながら、青山さんの奥さんの姿を脳の奥から引っ張り出してみた。ぼんやりと浮かんできたのは、タートルネックのセーター。それから丸い肩と、スカートを僅かに押しのける太ももと、エプロンを広げて隙間を作っちゃうほどの胸。青山さんの奥さんは料理がうまかった。一番覚えてるのは、名前が出てこないけれど肉を味濃く煮詰めたスープのような料理だ。人の家だということも忘れて夢中でかっこんで、こんなの毎日食べられてる青山さんは幸せっすね、なんでベタなことを本心から言ってしまった。その時二人共ささやかに笑っていた。青山さんはちょっと困ったように、奥さんは幸せそうに。その時奥さんの頬にはエクボができて、この人は全身やわらかそうだな、と思ったことまで出てきてしまい、瞬きをして追い払った。とにかく俺の中にある奥さんのイメージは、肉感。その奥さんをどこまで絞ってしまったのだろう。

「青山さん、コーヒー、まだ入ってんすか?」

「ん?」

「俺おかわりするんで、もしよかったら青山さんも。冷めちゃったでしょ」

「ああ、すまない、ありがとう」

 俺が店員を呼んでいるあいだに、青山さんはぐっとカップをあおって残りを流し込んでいた。そつないように見えて不器用な人。視界の端でその姿を見ながら、胸には確かに、軽蔑に似た気持ちがじわりと染みていた。出会って以来ずっと前を走るこの人を、尊敬しているが時々、ひどく彼に対する感情が冷めてしまう時がある。生活様式から将来の見通しまで完全に俺とは違って幸せと安定に支えられているはずのこの人の、少し怖がっている風な雰囲気を感じ取ってしまった時だ。彼は一体、何を怖がるのだろう。

 店員は引っ込んだと思ったらすぐに戻ってきてカップを満たして、また直ぐに去っていった。テーブルから伸びていくふたすじの湯気。青山さんは手をつけないまま、じっと拳を置いて低いところを見つめていた。

 それにしても、本当に良く出来てる。彼の顔も体も。すみずみまで文句のつけようがない。まるで作品だ。神さまが夜なべして作りあげた作品。血がかよっているとも思えない静かな顔が、再び口を開く。

「水分まで、なくしてやろうと思った。汗も涙もいらなかった。なのにいつまでも蜜子は泣いてたよ。毎日、寝ていても起きていても泣いてた。殴ると汗が浮かんだ。口を開かせたら唾液が垂れた。皮膚は乾いていたのに。体の中から溢れてくるんだな」

 砂糖を流し入れながら俺は少し息を詰めた。青山さんの話を聞くことかれこれ三時間。もう俺には奥さんがどんな状態か十分すぎるほど想像が出来てる。青山さんの自宅がどんな光景になっているかも。綺麗だったフローリング、観葉植物、ガラスのテーブル。全て、壊れるところまで壊れた中に、奥さんも紛れているのだ。そこに青山さんは毎日帰って、もっと壊せるところはないかと這いずりまわって探していたのだ。

「まだ、生きてるんですか?」

 白い、青い、赤い、黒い。それがきっと今の奥さん、青山蜜子さんの姿だろう。椅子にもたれたまま青山さんの目を見つめてみると、また、白いだけの影が湾曲して映っている。これはいつの、いつまであった影なんだ。

「あのさ、町野」

「はい」

「お前、あいつと寝たのか」

「……えっ?」

「寝たのか」

 ぞわりと、悪寒と冷や汗が全身を襲った。

 青山さんはこっちを見ない。声も落ち着いたままだ。なのに、この人の存在が、徐々にこちらに向かってくる。

 軽く握っていた指を少し開いてみると、汗で嫌に滑った。

「そんなわけ、ないでしょ」

 笑って見せようとしたが、唇が右端しか動かなかった。肩のあたりがひどくちくちくする。いつでも走れるようにしておきたいのに筋肉が全部凍りついてしまったみたいで準備どころじゃない。

 青山さんの顔に、視界の像が結べない。存在自体が暴力だ。核はどこだ。青山さん。青山さん。あなたはなにか怖がっていたんでしょう。脅かされていたんでしょう。

 それは、俺だったんじゃないんですか。

「町野、お前って、よくできてるな」

「……なんすか、それ」

「よくできてるよ。体も、顔も」

 楽しそうな声で言う青山さんが気味悪い。心の中を覗かれて言葉をとられてしまったのだろうか。俺が、青山さんに対して思っていたことをそのまま繰り返されて、彼の意図が全くつかめない。えぐるようにこちらを見つめているのは、青山圭二じゃない。

「町野。うちに来ないか」

 もっと早く、気がつけばよかった。彼らしく小奇麗に見えていたシャツの袖口が、ひどくほつれている。

「来るだろ。久しぶりに。懐かしいな。前は毎晩一緒に飲んでたよな。おまえの家に長々と世話になったこともあった。楽しかったよ。楽しかったんだ。あの時は、すごく」

 まくし立てるような早口で息継ぎもしないで青山さんは話し続ける。一瞬気が緩んで、周囲の視線がここに集まっているのを感じた。誰か助けてくれたらいいのに、こいつをどっかに連れてってくれればいいのに。手足の震えが止まらない。

「お前といくらいても飽きなかったよ。覚えてるか、金沢から小樽までの地味な旅。行く途中も帰り道も絶えず笑ってた。またどこかへ旅行でもできたらいいのにな。お互い会えなくてずっとどこにも行けずにいた。退屈だったんだ俺。どうしてお前がいなかったんだ。町野。どうして。ああ、でも、良いんだ。なあ、町野。来るだろ。死んじまえよ」

「青山さん!」

 俺が立つのと、青山さんが立つのはほとんど同時だった。出口に向かって床を蹴った。伸びてくる手を払ったバチンという音はすぐに後ろに流れていった。

 それからはもう、断片的な画しか網膜に残っていない。斜めになったガラス戸と赤い足ふきマット。明るい外と建物の境目。見慣れたビルの看板。

 気がついたら隣の駅の前にある公園の植え込みに吐いていた。喉も耳もギリギリと痛い。土を握りつぶしながら、鼻水とゲロが顔から滴り落ちていくのをぼんやりと眺めた。

 疲れた。ものすごく疲れた。今日のことは何から何まで夢だと思いたい。

 植え込みから何歩か離れて、思い切って地面にそのまま寝転んだ。寒空の下、遊んでる子供なんかいやしない。

 頭の半分が抜け落ちてしまっている。何も考えたくない。忘れたい。忘れたい。

 道路の方を向いて、瞬きを繰り返した。時々人が通っては、俺をじろじろと見て去っていくのを、カメラのシャッターになったまぶたが切り取っては捨てていく。

 奥さんは捨てられたんだ。多分、最初に青山さんが殴ったときに。

 何年も、青山さんはどこにもいなかった。本当のことの置き場所を見つけられないまま過ごしてきた彼を、俺は知らないでガキのときのまま軽蔑していたのだろう。

 目を閉じて息を吐いた。詰まった鼻をフンっと吹いて通しながら、自分の心の落ち着きにつくづく感心する。長い付き合いだった青山さんがあんなになってしまったのはショックだけれど、結局、もう、会わなければ良いというところまで納得がいっている。奥さんのことも遠い話だ。

 公園の真隣にある駅のホームでさわいでいるアナウンスが徐々に耳に入ってくる。

 ただいま、  でおきました、じんしんじこのためうんてんを、みあわせております。

「……青山さー……ん」

 足が、付け根からつま先まで地面にべったりと張り付いてしまっている。上から下からしんしんと冷えている。俺も死んじゃうのかなあ。奥さん、青山さん、俺。三人続いちゃってバカみてえ、あの世で会いたくねえよ。

「あんたの奥さんとなんか、寝るわけ、ないじゃないっすか……」

 あの体、羨ましいとは確かに思った。でもそれは、青山さんの隣にいたから、いい女だと思ったんだ。だから結婚だって後押しした。指輪も一緒に見に行った。ガラスのテーブルは俺からの新婚祝いだ。いつも二人は笑っていた。困ったように、幸せそうに。

 ぴくりと、指が勝手に動いた。体が俺を助けようとしたのかもしれない。ついで、自然と目が開いて、数メートル離れたところに立っている男を確認した。

 冬だ。冬の白い景色の中。青山さんが灰色をまとって佇んでいる。

 今度は顔がはっきり見えた。もう笑ってはいない端正な顔を見て、こっちが無性に笑いがこみ上げてきた。胃液の混じった唾液を吐き捨て、疲れきった腕で体を起こした。

 世の中全くうまくいかない。俺は知っていたんだ。薄汚れた犯罪者のカップを持つ手は白くて綺麗で、かすかに震えている。だけど俺には関係のないことだと思っていた。

 筋組織がぶっちぎれている膝ではなかなか立ち上がれず、諦めてあぐらをかいて青山さんを見上げた。

「町野。お前が、前を走ってくれよ」

 なんの感情も浮かんでいない顔でそう言われて、とうとう俺は声を出して笑ってしまった。こんなに怖いのに、もう涙も出ない。奥さんよりも水分がなくなるのは早かった。

「俺は、あんたの後ろにいたんですよ。ずっと」

 後ろでざわめく声がだんだんと大きくなる。ホームには次から次へと人が流れ込んでいて、こない電車を待っている。

「退屈でしたよ。あんたが楽しいと思ってた時も」

 再び俺は目を閉じた。そういえば上着を喫茶店に忘れてきた。どうりで寒いわけだ。

 離れたところにある植木から、鳩か何かが飛び立っていった。砂利を踏みしめる音がする。すぐ手前で止まった気配に、頭のてっぺんが粟立った。

「臆病もんの相手は、もうたくさんだ」

 これが最期の言葉かもしれないと、片隅で思いながら言った。

 前にいる男はしばらく黙って、やがて、はじめから間違っていた、と小さな声でつぶやいた後、俺の肩に掴むとも言えないような弱々しい力で手を置いた。

 どちらでも良かった。この人の世界は終わりだ。

 命が揺らめいて死んだり戻ったり消えたり現れたりしている。背中から小さな悲鳴がいくつもあがった。人身事故はすぐそこで起きていたらしい。傍らで泣き崩れる青山さんは金輪際、美しく見えることはないかもしれない、それくらい歪んだ顔をしていた。

 いい加減体の疲れも取れてきた。同時により一層寒さが身にしみる。色のない風景を目に映して、俺はただただため息をついた。

 ちょっとちびってるよ。くっだらねえ。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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