なつの蛙・拐す
夏の間、ぼくは長い夢を見る。
ある八月の木曜日。時刻は十三時。六畳の部屋の中は外界との区別なく、呼吸がしづらいほどの高温でふくれあがっていた。
畳に体を投げ出してからおよそ半時。少し腕を動かせば、皮膚には跡が、畳にはじっとりとした水気が残って、しばらく消えない。暗い木目の天井をじっと見つめれば暑さも多少は忘れるか。瞼にさえ億劫がのしかかり、遮りもわずかに見つめ続けるが、これは、いけない。息を吸うと同時に熱を吸い込み、否応なしに体温が上がる。
この部屋のある荘が日陰であることが唯一の救いだが、巨大な樹に抱えられるようにしてあるために風が通らず、ただただ流れ込む熱気をため込んでいる。
チカチカと星が散り始めた視界をそっと閉じて、代わりに口を開けばねちり、と干からびた唾液の音がした。おおいやだ。
「先生、いけませんよ、この部屋は」
「何が」
「サウナのようで……とにかく今時期は堪えらんないや。よくこんなとこで暮らせるなあ」
「慣れだよ。お前はいつも冷蔵庫みたいな職場で働いているからだ」
「こうして外回りがありますからね、ご褒美みたいなもんですよ」
「生き物らしくないな」
暗闇を見ながら声だけの先生と話をする。少し斜め調子の、言ってみればあまり人の好さそうでない声は、まったく人肌の暑苦しさが無く、心地いい。この間にも途切れることなく続くのは鉛筆の音。ぼくはこの終わりを待っているのだ。
先生には、ウチの出している雑誌において月一の連載をお願いしている。作家として世に名の通り切った先生の作は、少々不安定な売り上げを、毎月きちんと持ち直してくださるだけの価値がある。本当ならば毎週でもお願いしたいところだが、そんなことができる力のある出版社などいくつもないだろう。
高名は財産に代わるはずだ。だのに先生のお宅は木造何十年。バス停すら遠いような町はずれの中にあって、玄関のドアは鍵が朽ちかけている。金の大半は実家へ送ると聞いたが、それにしても清貧が過ぎる。
「生き物らしくなくともね、ぼくは快適でいたいですよ。これだって体にいいとは到底」
「ひとの住まいをとやかく言うなよ。下品な編集には遣りたくないね」
硬く澄んだ音を、鉛筆を置いたものとみて起き上がる。まとまった原稿用紙が目の前で左右に揺れていた。視線をあげると、背をかがめた先生の顔が口元だけで笑っていた。
床に手をつき「大変失礼致しました。ここで生み出された作品の素晴らしさを思うと物言いのしようも御座いません」と述べると、わずかな笑い声と共に原稿は床に置かれた。
親鳥の卵をつかみ取り、いそいそと封筒に詰めて鞄に仕舞う。玄関を見やると、立てつけの悪い戸の隙間からすじ状の光が差し込んでいた。その先の炎を考えると、今時分帰るのは、少し恐ろしい。
「帰れないぜ、しばらく」
「え?」
「ご覧」
振り返ると、窓際に立った先生がちょいちょいと人差し指を外に差し向けていた。
腰を上げて歩く途中、数歩の間に、ぱらぱらと天井の上を転がる音がした。
「あらら」
先生の横に立って外をのぞくと、木陰の先の道は確かに明るいのに、滴が次々と降ってきていた。息を吐いて頭に手をやる。そんな短い動作を終えるだけですっかり地面は色を変えていた。
「天気雨ですか。こりゃひどい」
「うん。妙に明るかったからな、来るだろうと思った」
「参ったな……」
服の胸元を煽り、中に空気を送り込む。自然の打ち水で多少涼しくなったはいいが、大事な原稿を荷物として抱えてしまった今、無茶をするわけにはいかない。
日差しと雨粒との両方をぼんやり眺めるぼくの足元に、先生はよいしょと言って胡坐をかいた。
「いれば良い。おれの締め切りだってまだ先なんだから」
「……、じゃ、お言葉に甘えて」
晴雨混同の景色から視線を引きはがし、先生の隣に座り込む。
壁に背を預けて、ぼくは小さな世界の中に溜まっていく水のことを思う。このボロ屋は雨漏りなどしないのだろうか。所々くさりかけている木造アパートだ。染み出しても不思議はない。しかし例え雨漏りがするとしても、先生は大した策も講じず、同じようにボロボロのバケツを置いたりするのだろう。
力のある作家だという事実にも、その自らを置く生活全般にも、まるで無頓着な先生との付き合いは四年ほどになる。前はもっとましな宅に住んでいたような気がするが、記憶が少々曖昧で、最初からここに通っていたような気もする。
春夏秋冬の流れるままに。暑さ寒さから逃げ惑い走り回る自分の日々とは、余りにかけ離れていて異質だ。ぼくはこの部屋で、雑事に揉み消された四季を思い出す。
夏。
「そう、暑いだろう」
虚ろにしていた意識の淵から、耳の穴近くに声がぶつかった。
あ、と声を上げるのも間に合わず、声よりももっと密な物質が左耳を食んだ。目をぐるりと動かしても、先生の髪の先と、その向こうの壁が見えるばかり。物質は耳の内部にまで入り込み、巨きな腕に両肩を抱かれて体温が二乗に増した。
頭蓋の中で、啜るような音と雨が跳ね返る音とが混ざり合って、体が上から潤けていく。背けようとするのに、外耳のフチや穴を移動する柔らかな動きを知覚しようと躍起になってしまう。痺れとふるえに侵された指でわずかに先生の胸を押し返すも、なんの意思表示にもならなかった。
自分の息さえ口の中で巻き返って、うまく息ができない。耳から離れていったと思ったら、伸縮を繰り返す喉をじっとりとなぞられて、声が上あごに響いた。ざらざらした感触を思ってしまうと、足の付け根に血が回る。
「先生、あ、の」
「よく汗をかいている」
皮膚の味をせせら笑われて、あまりの羞恥にくらりと眩暈がした。しかし、制止のために開いた口も、腿を這う手のひらに気づいて言葉を落としてしまう。何本あるか分からなくなりそうな指先が、筋を伝って上り、一番意識を揺らがすところを擦る。
「う、おあ、あ……せ、先生待ってく、だ、ううっ」
「まだだ」
脳みそがひっくり返ってしまいそうなのに、膝にぐりりと硬い肉を押し付けられて一切の現実味がなくなりかけていた。足の裏に畳の縫い目がこすれてむず痒い。いつのまにか床に落ちた頭を振って自分を取り戻したくとも、先生の手も、引かれた自分の手も、ひっきりなしに上下に動いている。
あさましい。浅ましい。ぼくは、ぼく自身がどこへいってしまうのか。ほとんど手探りで先生の肌を追い、自分の体も投げ出して腰を浮かせる自分が、酷く憎くて醜くて、恋をしそうだ。額に降りてきた唇に触れたくて目を開けると、暗かった天井が眩しく光っているのを見た。
ふいに、濡れていない声をこぼしたぼくを、先生が少し顔を離して伺う。
雨が止んで、日差しが生き返り輝きを増していた。逃れていた虫たちも一斉に騒ぎ出す。あらゆるものから遠いこの場所で、かいたばかりの汗が脇腹を伝って落ちていった。
「夏、だ」
ぼくはこうして見上げる先生を、窓枠を、天井を知っている。記憶と合致した全身の器官の覚醒に、下半身がおののくような、喜ぶような体液を垂らした。
惑うように口を動かすぼくを先生は笑う。人の好さそうでない、薄くあやしい色の顔で。
「夏だよ。これからね」
そう言って先生は自らの舌をぼくに食べさせた。少しだけ刺激のある甘さを噛んでいるうちに、広く平たい太陽の中に体が溶けていく。
夏の間、ぼくは長い夢を見る。いつから繰り返された夢なのか。春を生き秋を生き冬を生き、夏だけがぼくを先生のところへ連れて、この世界の一部に埋め込む。埋め込まれた体は闇雲に、明るさと自然の音と肉体の匂いだけを感じて、焼ける痛みと重い水分に分解されていくのだ。
ぼくは長い夢を見る。今がその、かくも眩い始まりであった。
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