所詮
かさり。
板書でカラーチョークが使われたため、ペンを取ろうと筆箱に入れた指に、予想していなかった紙の手触りがあった。
見てみると白い小さな紙が、四つ折りになって入っていた。
こんなの入れた覚えはないのになと思いながら開いてみる。
『ごめんな』
小さな紙の真ん中に、小さな文字が言葉通り、申し訳なさそうに並んでいた。
途端に視界の端が遠くなるような感覚に襲われて、俺は目を細めた。
すぐ後ろにあるストーブがブウンと唸って、耳鳴りを引き起こす。
キツめに締めたベルトの感覚も、前の席のやつの字を書く動きも、途切れがちな声も、薄く薄く引き延ばされて消えそうになる。
辛うじてハッキリしているのは、
それが嫌にハッキリし過ぎているのだが、
教壇の上にある奴の姿だ。
いじらしくて不愉快なメモの向こう、同じクセの文字が黒板に書かれている。
声は聞こえなくなりそうなのに、黒板と教室を交互に見ながら動く様はまったく霞まなかった。
膨張する耳鳴りの中で俺はひたすら、罵り言葉だけを考えていた。17年の人生の中で見聞きした、ありとあらゆる悪口を腹にためた。血が黒くなる思いがした。
だけれども俺の口は ぴたりと静かに閉じていたし、指先には力も入らなかった。内臓と脳だけが熱くて煮えてしまいそうなのに、手足がひどく冷たい。
ストーブがブウンと鳴く。
奴が振り返る。
「突然ですが、皆さんに大事な話があります」
弛んでいた教室の空気が少し張りつめた。
俺は奴の顔をうまく見ることが出来なくて、黒板や左右の壁を含めた一枚の絵を見ているような気持ちがしていた。
たくさんの罵倒は急に姿を消してしまった。
「私の一身上の都合で、今月いっぱいでこの学校を辞めることになりました。来月からは別の先生が引き継いで下さいます」
ええ、とか、なんで、とか、ため息のような声があちこちから聞こえた。前の席の奴が体を捻って振り返り、知ってた?と聞いてきた。
俺はメモを畳み直しながら、知らない、と答えた。
奴はこれまでのお礼や軽い思い出話などをしている。ほとんどの生徒が顔を上げて真剣に話を聞こうとする。俺は膝を抱えて、スニーカーのひもを結び直した。
「短い間でしたがお世話になりました。これからも頑張って下さい。皆さんのことを応援しています」
奴が頭を下げると同時にチャイムが鳴った。その音をかき消すように拍手がわき起こる。
そして頭を上げると、何人かがバタバタと奴に駆け寄っていった。
それをつい目で追ってしまった。
絶対に見たくなかったし見てはいけなかったのに、誘導じみた動きの先で、カチリと部品がつながるように視線が合ってしまった。
光のない、乾いた目が俺を見ていた。
うっすらと唇が開いて、声を出さずに、奴は俺に一言だけつぶやいた。
遠くて、かすかな動きだったのに、とてもゆっくり、見えた。
瞬きをした後には、奴はもう取り囲む女子に気圧されしながら対応していた。そうして、教科書をまとめて、質問責めにあいながら教室を出て行ってしまった。
机に突っ伏して、学ランの袖に両目を強く押しつけた。
目が痛い。
腹が痛い。
まだ痛いよ。先生。
まだ痛いのに。
喉が震えて、肺がきしんで、呼吸が乱れてしまいそうになるのを必死で押さえつけた。
やっとの思いで細く息を吸ったら、数日前に嗅いだ先生の煙草のにおいがした。
それは紛れもない錯覚でしかなかった。
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