彼女のケーキはとても甘い
つま先の痛みと、それから部屋の境目(ここの名前が思い出せない。踏むととても不作法だった気がする)の冷たさに、わたしはつい、
こんなはずじゃなかった、
と心の中で呟いた。
秋も深まって寒くなってきたのに、ミュールなんか履くんじゃなかった。
きちんと靴下を履いて、少なくともストッキングやレースの薄いやつでも良いから履いていれば、床に砂のように飛び散ったガラスの破片なんか踏まなくて済んだのに。
わたしは慎重に一歩下がって、足の裏を確かめた。
小さな小さなガラスが食い込んで、ぷくりと膨れた血の雫に押し出されそうになっている。
埋め込んでしまわないように爪の先でつまみ出した。張りつめていた血が崩れて、転がるように滴っていく。
白いレースのネイルが台無し。
「キキ?」
おしりを向けているソファの向こうから、寝ぼけたような声が伸び上がった。
「そうよ。ねぇ、メイ、これはなあに?あなたのおうちには罠が必要?」
「なんのこと……あぁ」
おもむろに、ボサボサの黒髪が起き上がった。よれよれのTシャツは多分昨日も着てたもの。顔を手でごしごしと擦るメイは、眠気を覚まそうとしているようにも、気まずさを紛らわそうとしているようにも見える。
気まずい?
それはそうよね。
でも言ってなんかやらない。
「ごめん。昨日、酔ってさ。怪我しなかった?」
弾け飛んだグラスと、すっかり香りの抜けてただの汚れた水になった液体が憎らしいくらい広がった、ひどい床。
彼の虚ろな黒目がその上を一センチくらい浮いたままさまよって、私の足元に留まった。
足を持ち上げて見せるなんてことはしない。下品だし、今日は膝より短いスカートだから。
「バンドエイドをちょうだい。貰ったら帰るから。気をつけなさいね」
「えっちょっと待ってよ。今片づける!」
「わたしの怪我が先」
もちろん!
そう言って飛び出したメイの下半分はトランクス。さいてい。
テレビの横の戸棚からポンポンと物を放り出して、奥の奥から探し当てたバンドエイドを、断ってからわたしに投げた。
扉一枚、隔てたおかげで綺麗なままの廊下に座り込んで、わたしはまだ少し血がにじむ傷口をふさいだ。
ガラスで切った傷はどうして血が止まりにくいのかしら。
わたしがぐるぐると頭のなかを濁らせて、かき混ぜて、煮立たせている間、メイは床をタオルで一生懸命拭いていた。
先にガラスを片づけないと、という言葉を飲み込んで、わたしは素早く立ち上がる。
「さよなら」
「えっ!」
猫のように驚くメイに背を向けて歩き出す。
けれど、踏み出した足はやっぱり鋭く痛んで、少し怯んだ隙にガラスの河を飛び越えたメイに捕まった。
「行かないで、キキ」
首筋に鼻をこすりつけて、寝言みたいにつぶやいている。
「まだ眠いんでしょ?」
「眠くない。君が来たんだから、起きるよ」
「体が熱い」
「それは、眠いからじゃない」
体をずらしたメイが、そっとわたしの顎を持ち上げた。
唇が濡れる。
寝起きのはずなのに彼の舌は大層潤っていた。それどころかじんわりと甘くて、昨日彼が体にたくさん貯えたお酒が染み出しているみたいだった。
キキ、
唇を離して、耳元で熱っぽく名前を呼ばれて、思わず息が漏れた。
全くもう、どうしようもない。
服の中に潜り込んでくる二本の腕をかいくぐって、わたしは特別に熱いメイの足の付け根に指を伸ばした。
「イッ……!」
柔らかいところに指を押し込んだら、彼はびくりと大きく跳ねて、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「き、キキ……ここはダメだよ……」
「わたしは帰るの。したいなら、そこで一人でして」
顔を真っ赤にして震えるメイを置いて、部屋を出た。
内股についてる真っ赤なあざを、最後に思いっきり睨みつけてやったことも、うつむいてた彼は知らないだろう。
後ろ手にドアを閉めながら横顔に吹きつけた風に小さく舌打ちをした。
ムカつく。失礼よ。馬鹿にしてるの?
いいえ、メイはわたしのことを馬鹿にしたりしない。だから余計にムカつく。
わたしは、ドアの前に不自然に置かれた石の下から、小さな紙を引き抜いた。それは短い短い手紙だった。
こんなの、どうしたって眉間にしわが寄る。
(また2人で。)
なんて立派な、大人の男の字。
我慢できなくって、わたしは文字から少しずらした場所に、唇を強く押し付けた。
ピンク色のキスマークは、色が薄くて輪郭がぼやけていたけど、これで良い。もっと付くはずだったものは、今メイの唇に乗っているんだから。
手紙を石の下に戻して、鞄をかけ直しながら歩き出した。
家に帰ったらお風呂にはいろう。
誰かのための短いワンピースも、指先が綺麗に見えるようなネイルも、きらきらと光るボディパウダーも、全部脱いで、洗い落としてしまおう。
それでもまた、お風呂からあがったら、誰かさんの好きな甘い香水をつけるだろう自分を思って、わたしは小さく、鼻をすすった。
あんな短い時間で移ってしまった彼の匂いを、どうしても憎むことができない。
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