保安球
心の中で毎日唱える願いごとがある。暗い瞼の内側で、ほのあたたかく瞬いている。
「アイチャン、くっつかないで」
八戸の首すじに押しつけた耳に、振動がビリビリと響く。解放されている反対側の耳のほうが当然声をよく拾うが、直接的な感触の方がずっと真を掴めているような気がする。声の合間に鼓動が聞こえて、それが俺のものなのか八戸のものなのか、判別がつかないほど密着しているのが心地いい。いつまでも浸っていたいのに、背中がよじって、腕を巻きつけていた腰もひねられて、頭を手で押さえつけられる。
「暑いよ」
真横で首を振る扇風機が、体の間にできた隙間に風を送る。俺の肌着も八戸の肌着も汗で湿っていて、風に冷やされるのは確かに気持ちが良かった。
「嫌だ」
離れていこうとする八戸を正面から抱え直して、むき出しの肩に顔面を押し付けた。頭の上で「オレもやだ」とへの字の声がする。ら行が曖昧で言いづらそうで、甘い響きに胸がきゅっと縮こまる。口を開けて肩の稜線に噛みつくと、塩辛い味がしてすぐ、後頭部をぶん殴られた。
「やめて」
「歯が折れる」
「自分が悪いんだろ」
いよいよ機嫌を損ねてきてしまったので、心の底から惜しみながら腕を解いて体を離した。八戸は初対面の動物みたいにジタバタしながら俺の足の間から脱出して、軽やかに立ち上がる。冷蔵庫に向かっていく。はだしの足の裏がほんのり赤い。
「アイスもう残ってないんじゃねえか」
冷凍庫の引き出しががらがらと開いて、すぐにがらがらと閉じる。扇風機の風が横っ面に吹き付けて涼しい。振り向いた八戸は俺の顔を見て眉を寄せた。なんで笑ってるんだと言いたそうだった。
「買いに行くから、アイチャン留守番ね」
「嫌だ、俺も行く。可愛いハチコが誘拐されちまう」
「じゃ行ってきて。オレ、留守番」
「そんなことしたらネズミに引かれる。一緒に行こうぜ」
テーブルの上の財布を取って、八戸の手も取って玄関に向かう。
金属を延々擦り合わせる様に蝉が鳴き、日は沈んだというのに空気は肌が焼けるほど熱い。傾きかけた古い集合住宅と工場を兼ねた家屋の並びを、グリルの中を進むように歩いていく。揃って肌着で商店に行ったことで俺だけが店のおばさんに怒られ、八戸はそれに気を良くして帰り道はご機嫌だった。アイスの袋を二の腕に当ててやると躊躇なく脇腹を蹴られた。吹っ飛んでいったサンダルを拾って履かせる間、八戸はバランス良く片足で立っていた。坊主頭から際限なく汗が滴っていて、俺の髪の毛先からもぽたぽたと雫が落ちる。
秋になる前に死んじまうな、と言うと、八戸は微笑んで小さく頷いた。うっとりとしたまなざしだった。従業員が突然二人まとめて死んだら所長はびっくりするだろうか。同じ墓に入れてほしいよな、と言うと、一変呆れ返った顔で無視されたが、是非焼く時だって一緒に焼いて、骨壺も同じ一つのものに入れてもらいたい。
シャワーを浴びて、さらさらになった八戸の首を撫でた。つめたい水のような瞳がじっと斜め下に向いている。明るいうちだったら嫌がるのに、もう夜深いからか、扇風機の風に冷まされて、氷菓に熱を奪われて、八戸はいつも以上に静かだった。布団に寝かせるとくたりとして、子どもみたいにあっという間に寝た。感嘆の息をつき、電灯の紐を引く。橙色になった可愛い子を瞼に焼き付けてから、目を瞑った。幽かな寝息を聞きながら、早く明日になりますようにと願いごとをした。早く明日になりますように。ハチコがずっと俺の所にいますように。ハチコがずっと生きていますように。その間俺もずっと生きていますように。早く明日になりますように。
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