Noir

 帰宅すると、その人はテレビを点けたままソファで眠ってしまっていた。うつぶせの体に首だけをテレビに向けた格好は窮屈そうで、押しつけられて半端に開いた唇から、変な寝息が出入りしている。仕事鞄を適当において、リモコンで電源を落とした。

 テレビの音量は聞こえるか聞こえないかまで絞られていた。眠るために点けていたんだろう。あのチャンネルは深夜によく古い映画を放送している。どういう神経をしているのかよく分からないが、その人は映画を好んでいるらしかった。ため息をついてリモコンを置き、洗面所に向かう。

 シャワーを浴びて、ドライヤーを使ったり歯磨きをしたりする音でその人は起きたらしい。戻ってみると、ソファに座ってぼんやりと重たげに首を垂らしていた。

「また寝るならベッドに行って下さいね」

 冷蔵庫から出した水を注いでいると、俺も、と擦り潰すような声が言った。

 二つのコップを持ってその人の隣に座る。わざと端と端ではなく、膝が触れる程度の場所を選んだ。その人はもぞもぞと動いて窮屈さから逃れようとしたが、大した落ち着きは得られないようだった。黙り合って、交互に水を飲み下す。

「やってたのって、売ったやつでしたか」

 聞けば、喉の中で水と空気が混ざる音がして、その人はひどく噎せた。ぱっと口を手で覆っていたが、激しい咳を抑えられず、手の平や指の隙間からぼたぼたと零れ落ちる。

 揺れるコップを受け取って、首にかけていたタオルをその人に押し当てた。こわばる背中を撫で、押し出される唾液や鼻水を拭き、包むように、両手をその人に使った。少ししてやっと緩んできた表情が、また違う形に歪んで俺に向く。振り払われたタオルがしなって頬に当たった。痛い、と言うと、目を逸らされる。

「寝る」

 と言い、立ち上がろうとしたその肩を掴んで、ソファに引き戻した。前に立ち、曲げた片膝をその人の膝の上に乗せた。

「何ていう映画でした」

 いよいよ嫌そうな顔をする。理解に苦しむ。たっぷりの沈黙で抵抗した後、俺が徐々に体重をかけていくのに観念したのか、小さな声でタイトルを教えてくれた。すぐにVHSのパッケージが浮かぶ。

「見たくなっちゃったんですか」

 俺の質問の意図をその人はちゃんと汲み取って、苦みを顔中に滲ませた。ごくり、と嚥下する首に筋が浮かんだ。

 見たくなっちゃったんだ。眠れなくてチャンネルをぱっぱっと変えていたら、あるいは番組表を見ていたら、知ってるタイトルがあったから見てみたくなっちゃったんだ。その人は、それを見たことあったのかな。好きだったんだろうか。あるいはタイトルだけ知っていて興味があった?

 一人で居ることしかできないこの部屋で、その映画を流しながら、どんなことを考えてどんな気持ちになったのか、本当に想像することができない。少なくとも眠れていたということは、何らかの安らかさをその人にもたらしたのだろうか。それすらも俺にとっては理外のことだった。

「叔父さん、映画好き?」

 両肩に乗せた手に力を込めて、額に額を寄せて聞いた。

「じいちゃんの影響?」

 ぐう、とその人の喉が鳴った。咳き込んだ時に飲んだ空気が上がってくる音。一つ二つまた咳をして、おでこがぶつかった。痛かった。顔を離して見ると、その人は目をやや伏せながら右に左に忙しなく動かして、何か言いたそうに唇を開いては噛みしめていた。

 謝りたいだろう。謝って許してもらえたらそんなに楽なことはない。でも俺は謝ることを制限している。ごめんとか、悪かったとか言うたびに、部屋から出られる日を延ばしますからねと言ってある。だからその人は誤魔化すための、逃げるための軽い口上を述べることができない。

 子供のころ、祖父の家の、壁一面にぎっしりと詰め込まれたVHSを眺めるのが好きだった。頼めば再生してみせてくれたけれど、どれもとても古い作品で、内容はよく分からなかった。ビデオの中身より、祖父が好きだったもの、祖父が愛したものがずらりと並んでいるその景色が、そこにあることが嬉しかった。祖父が亡くなり、俺と交代で家を管理していた父も昨年死に、落ち着いた頃に行ってみると壁ががらんと抜けていた。その人に連絡すると、こともなく答えてくれた。良い買い取り手がいたらしかった。頭が空っぽになった。どうしてそうできたのかが分からなかった。

 分からなかったから、その人を自分の家に呼んで、出られなくした。空っぽの頭で、空っぽの頭だったから、その人が動けなくなるようなことをいくらでも言うことができた。期間はひとまず三ヶ月にした。色々なやり取りのために一時は半年にまで延ばしたが、今はちゃんと日毎に残日は減っている。三ヶ月にしたのは、それくらいあれば俺のこの人に対する気持ちを処分できるのではと思ったからだ。元々、父からもあまり関わるなと言われていた人だった。関わらないでいてもそういうことが起きてしまった。だから手元にやってきちんと始末をつけないといけない。そうでないと、何をしてしまうか分からない。

「ベッド行っていいですよ」

 膝をどかして、動線を空けてやると、その人は身をよじりながらソファから離れた。やや不安定な足取りで寝室に向かう背に、冷房入れといてください、と声を掛ける。返事はなかった。

 寝る前の支度をして、口火を切って、照明を全て消していく。寝室のドアを開けるとひんやりとした空気が心地よかった。ベッドの端で、夏掛けに包まって固まるその人の横に滑り込む。使われていない枕を一応その人の方に寄せて、自分の枕に頭を沈めた。

 真っ暗な部屋に少しずつ目が慣れてきて、カーテンのひだの隙間から入るわずかな外灯の明かりで天井を見つめた。無地のクロスが、あのがらんどうの壁を思い出させる。一つも残らなかった。全てが金銭に化けて、すぐに泥となって消えた。祖父はその人を愛していただろうか。その人は祖父を愛していたんだろうか。葬儀の時その人がどんな様子だったか思い出せない。俺はその人のことを良く知らなかった。今もよく知らないし、分からない。残りの日数を数える。その時までに俺も、ちゃんとしないといけない。

 目が冴えて、眠気が遠かった。片手をシーツに這わせて、その人の夏掛けを見つけてそっと手を当てる。子供を寝かしつけるみたいに、何度かゆっくりと撫でた後、とん、とん、と弱くたたいた。小さな声で何か言われた気がしたが、聞き取れない。手の平が温かい。とん、とん、と繰り返すうちに、振動が手から頭に伝わって、とろりと意識が溶けていく。自分の手が動いているかいないか分からなくなる頃には、呼吸がふたすじになっていた。空白に落ちるような眠りの入水。地獄に行け、そう思った。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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