黄泉路
黄泉の国の近く、五つ池を回り終えて、足がくたくただった。尻を着けた草はあおく湿っている。まばらに木立のあるほかは、ひしめくように柔らかい野草が続いている。じっとりと湿り気の多い雲に生温かい風を絶えず吹きかけられて、目に入る全てがその重さにうつむいているようだ。かく言う自分も、この異様な疲れは闊歩のためばかりでなく、ぬかるんだ地面に足を取られがちだったり、湿度の高さに延々と汗をかき続けたりしているせいである。立てた膝に腕枕を組み、継ぎ目を見失いながら息をする。反して、隣接する朝生の体は、けろりとしていた。つい今しがた、ようやく両足が揃ったばかりで、運動の疲労を知らないからだろう。
随分つかれたな、と朝生の体が言う。主語のはっきりしない言い方は、朝生であったころと同じだった。この際だから指摘してやろうかと思ったが、今は気力が果てている。思いやりを期待すること自体間違いだ。これは朝生ではない。
「疲れたよ。喉がかわいた。池の水は飲めないのか」
「飲めるかどうかわからんが、俺がばらばらになって沈んでたような池だぞ。飲みたいかね」
「沈んでいるのがお前だけならな。飲み干すさ」
「あら、やだ。惚れちゃうわけだわね」
惚れちゃうわね、と言わないあたりが、やはり、と意地に思わされる。
朝生はひと月に死んだ。大学の研究室で何をどうしたか劇薬の棚をまるごとひっくり返し、浴びたり口にしたり目耳に入ったりまみれみまみれて死んだ。その日も布団から抜け出ていく朝生をぼんやりと感じるばかりだった俺はあらゆる悲しみ方を踏襲した。最後には預金を全て下ろして温泉旅行に参った。湯治に望みを抱いたのでは勿論無い。あわよくば死ねたら良いと思っていた。死ぬなら暖かい場所が良いと思った。
湯けむりの靄に朝生の幻影を見出そうと涙の止まらぬ目を凝らす内、いつの間にか湯けむりはただの霧に変わり、俺は足元の池から朝生の胴体を引き上げていた。藻と泥に汚れてはいたが、勝手に着ていかれた俺のシャツに包まれていたのですぐにわかった。
その小さな池には胴体のほかはどじょうがぬるつくだけだったが、直ぐ側にあった別の池で右腕を見つけ、また別の池で左腕を見つけた。その次を見つけるまでには相当の時間をかけ、ようやく首を探し当てた。位置と向きに気をつけながら頚椎をつなげると、薄い瞼がすっと開いて「わざわざだな」と言った。唇に噛み付いてやろうかと思ったが、前歯の隙間に水草が挟まっていたので止めた。
さらに時間をかけて、右足、そしてようやく左足を見つけたところだ。池と池の間が遠い。遮蔽物が少ないので、捜索自体はさほど苦労しなかったが、そこにたどり着くまでがとにかく遠かった。おまけにまだ揃っていない朝生の体を抱えて歩くのは一人よりもよほど苦労した。
「それでよ、朝生、心てえのは掬えるのかよ」
「いや、落とすのが初めてなんでどうしたもんか。見えるかどうかもわからんね」
「例えば俺等が新しく池を見つけて、そこに心があるのかどうか」
「向こうから戻りたがって、飛び上がってくれれば良いんだけど」
「適当なことばっか言うんじゃねえ、この」
まだ何となく湿っている頭を掴んでぐらぐらと揺さぶった。やめろい、と可も不可もない声音で朝生の体は言った。引っ込めた手にやたらと毛髪が絡みついているのは、気に留めないように少しだけ努力した。
じりりり、と低い声で鳴く虫が居た。ある時は遠くで高い鳥の声もした。生き物がいるのだ。沼の底のようなこの風景の中にも。よく考えてみれば自分もその一つである。死んでいるものも、きっと見えないところにはいるだろうが、ちゃんと死体としてあるだろう。生きているものと死んでいるものは同在しても、区分ははっきりと分かれているものだ。朝生の体がおかしい。まだ四十九日が済んでいないからかもしれない。
「今、何時だろう」
「何時に此処へ来たんだい」
「わからない。俺は朝風呂に入らないから、夕方か夜だったと思うが」
「何時間歩いたんだい」
「さあな、時計は部屋に置いてきた」
「あのよう、もう、七日もたってるんだ」
うそつけ、と直ぐに唇を尖らせたが、朝生の体には冗談を言う喜色のかけらもなかった。それはそうだ。心がないのだから人を謀ろうなんて思うわけがない。
「俺の後頭部、禿げてんだろ。足の爪もさ、せっかく見つけてもらったけど、大分剥がれちまってるよ」
生温かい風が吹く。温泉の匂いがここまで届くような気がした。硫黄の、腐ったような、においが。
「近いよ。日が。俺、最後までしてくれなんて言わないよ。どっちにしたってね、くたびれ儲けだわ」
「うるせえな。脳がねえのに喋りやがって」
「脳はあるわい、失礼な」
限界がきて、俺は朝生の体の唇を指で押し開いた。いつの間にか挟まっていた水草がなくなっているのを確認して、自分の唇を強く押し付けた。肉の弾力があまりにも弱かった。目を閉じて、朝生の体の肌が、池から引き上げたときより随分色を変えてしまったことも見ないで、俺は喋り続けた。
「意味がなくてもよ、見つからなくてもよ、見つかってもどうにも成んなくてもよ」
「うん」
「でもよお、朝生。俺ここまで来ちまったよ。お前のとこに来たくて仕方なかったよ。まだ、止めたくねえよお」
うんうん、と朝生の体は頷いて、そっと俺の背中を撫でた。優しさではないだろう、だって死者には心がない。俺がその感触に愛情を見出すのはただの願望だ。抵抗しない朝生の体をこのまま抱くことだってできるだろう。そして彼は朽ちていく。朽ちさせていく。
六つ目の池は見つからないかもしれないとどこかで思っていた。朝生の体を集めながら、完成に近づいていくにつれてぼんやりと不安を強めていた。前へ進むつもりが靄の深い方へばかり進む俺に朝生の体は文句を言わない。この世で最も愛した人の抜け殻を抱えて、俺は、どこへ行けば良いのか分からなかった。
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