明日があなたで満ちますように
放物線を描いて飛んでいく小石を、手でひさしをしてずっと見送った。
「とおーくまで飛ぶなあー」
ぽちゃん、と音がして、遠く遠くの水面に小石は吸い込まれてしまった。寄せる波に乗ってくるでもなし、沈んで砂に紛れてしまうだろう。
「池松君、何かやってたの?」
数歩離れたところで砂浜を木の棒でいじっている彼に聞くと、高校まで野球やってたっす、と振り返りもせず返答される。
「高校野球なら、甲子園目指した?」
「ぜんぜん。弱小だったんで。ハルさんはなんか」
「俺帰宅部。ごめんねえ面白くなくて」
いえ、と言って、池松君はしばらく手にしていた木の枝も大きく振りかぶって海の方に投げ入れた。くるくると回転して遠ざかっていく木の棒。戻ってこい、と念じてみたが、当然そのまま小石同様海面に落ちた。黒々とした海面は遠くで霞み、重く垂れこめる雲との境が分からなくなっている。冬の海は昼間でも暗く、終わりの地、という表現がよく似合う。
「池松君、見て、でっかい貝。ほらほら」
足元にあったものを掘り出してみせると、池松君は寄ってきて、ほんとだ、と合わせてくれた。俺といる時の彼はきっと退屈だろうに、そんなそぶりを見せずに投げた話題にきちんと答えてくれる。真面目な子なのだろうと思う。大して知らないけれど。
池松君とはネットを通じて知り合った。出会い系の掲示板サイトの中でもちょっと後ろ暗いような雰囲気の場で。彼の書き込みから住んでいるところが近いことは分かっていたので意識していたが、書き込まれた年齢があまりに若かったので俺からはコンタクトを取らなかった。けれど俺の書き込みに反応してくれて、何度か会って、今に至る。
池松信。いけまつのぼる。20歳。それしか知らない。それも本当の情報か分からない。わかるのは彼が結構整った顔と、細身ながらしっかりした体格をしていること。足の爪が伸びがちなこと。すね毛が濃いこと。
今度ことが終わったら保険証でも見してもらおうかなあと考えるのんきな自分に気が付いて、自分の頬を軽くたたいた。今日はそんなこと考えるようなお出かけじゃない。
「やっぱ、海がいいすか」
池松君が俺の手にある貝殻からはすーっと視線をそらして、遠くの海を見つめて言う。横顔のラインが美しく、なんでこんな整った子が、と心の中でつぶやく。
「うん。そうねえ。海だったら」
風が強く吹き、上着を透かして冷気をつきつきと突き立ててくる。
「海だったら、分からなくなるからさ。行方も」
入水しようと思っています。××海岸まで来られる方。交通費出せません。日時相談します。
俺の書き込みに、彼は××海岸なら電車ですぐですと返信してきた。待ち合わせ場所を決めた直後に規約違反で俺の書き込みは削除された。
彼がしていた書き込みは、ありふれた、同衾の相手を探すものだった。待ち合わせ場所に現れた軽装の彼になんだか申し訳なくて、一度はちゃんと彼の目的を果たしてあげた。それきりかと思ったが彼の方から次の約束を取り付けてくれた。引き留めようとしているのならば悪いと念を押したが、静かに、頑なに、それでもと申してくれて、会うたびに次を作ってもらっている。もう海に行く、と言っても、じゃあ行きましょうと言ってついてきてくれた。あまりに若い子の考えることはよくわからない。
「ハルさん、ずるいなあ」
え、と彼の顔を見ると、首元をちょいとちょいと指さしている。
「ハルさんだけ首あったかいの、ずるいっす」
マフラーをぐるぐる巻きにしているのと指摘されている。よくよく見れば彼は初めて会った秋口から変わらずずいぶん軽装で、長袖のTシャツにジャンパーを羽織っているだけだった。
「ああ、貸してあげよっか」
外して渡すと、池松君は手に持ったそれをじっと見つめた後、おもむろに俺の首にかけなおしてきた。なんなんだと思ってみていると、片方の端を俺の首に、もう片方の端を彼の首に巻きつけている。
「歩けないよ、こんなんじゃ」
「でもこれで公平」
お互いに片端が伸びたマフラーは、二人ともちっとも暖かくならない。カップルやることの代表のような行為だが、これが関係性によって体感温度が馬鹿になっているものがやることだなとしみじみ思い知った。
海にいる。波の裾が無数の泡をはじけさせてぷちぷちと、肌寒く冷たい音を立てている。
「池松君、これでこのまま入ろっか」
どうせ海水は氷のような温度なのだし、今更マフラーの機能性がどうのなんていうことはない。笑顔で言ってみると、池松君はいつもの大きく見開いたような眼で俺を見て、
「ハルさん、帰ったら、うどんつくってほしいっす」
と言った。
え、と固まる俺の手をとって、彼が波打ち際に歩を進める。ぎりぎりつま先が濡れるか濡れないかのところで立ち止まり、二人並んで海に向き合った。
黒い海面だ。俺が生まれてから今まで愛せない海。人が消え、人が飲まれ、人を誘う黒い海。
ああ、いやだな。そう思った。
こんなさみしいところで死ぬのは嫌だな。
「池松君、うどんに七味ふるひと?」
聞いてみると、はい。とはっきりうなずかれる。
「じゃあ、スーパー寄って帰ろうね。うち七味ないから」
はい。と答える彼に、マフラーを外して巻いてやる。いいんすか、と聞かれるが、もうとっくにすべてが良くなっている俺はマフラーの一つくらい、すっかり彼にやってしまう気でいた。
誘う波に背を向ける。寒いよりは、暖かな場所で。暗いよりは、明るい場所で。すこしやわく溶けた心では、そう思う。そこに若い男の子がいても、いなくてもいいけれど、わざわざ七味をふるようなことは、こんな場所ではできないので。
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