悪魔の食卓
温かい音とともに、陶器の深皿が目の前に置かれる。中には白くてまろやかなシチュー。ジャガイモに人参に鶏肉のシンプルな具材がいとおしい。
「寒くなってきたって言ったのを聞いて作ってくれたのかい」
まだ台所でせわしなく動いているパートナーに声をかける。彼は自分のシチューを置き、スープを並べ、中央にサラダをおいてようやく向かいの席に着いた。
「シチューって冬の食べ物なんでしょう。まだ早いと思ったけど、作ってみたかったから」
「いつ食べたっていいんだ。とてもおいしそうだよ」
いただきますと言って食べた一口目は本当においしかった。何特別なこともないが、おいしいよと伝えた先でほころぶ笑顔が、いたずらっぽくウインクをし、それを見るだけで口も胸も何倍にも満たしてくれる。彼もスプーンを口に運び、初めて食べるのであろう感触を楽しんでいる。その頭には角が輝き、椅子の向こうで細い尾が揺れる。
彼は悪魔だ。俺は彼に心を支配されている。
休日の喫茶店だった。一人で入ってきた彼に自然と目が引かれた。ぼんやりと見つめるばかみたいな俺に彼はすぐ気が付いて、一度小さくウインクをした。それだけだ。それだけで俺は彼に家への侵入を許し、体を許し、心を預けてしまった。自宅のドアを閉めたとたんに出現した角と尾の生えた姿は実に美しかった。
彼は俺に何も無理強いしなかった。それどころか甲斐甲斐しく俺の生活の助けをしてくれる。こうして料理を作ってくれたり、風呂に入れてくれたり、寝るときもそばにいてくれる。俺が喜ぶからだ。
「私といて楽しいかな?」
彼はそう聞く。俺に片目で魔法をかけた後には必ず聞く。そして俺の返答があるまでの刹那、その笑顔にはわずかな影が差す。
俺ははじめ、なぜこの確認作業的な質問をされるのか分からなかった。しかし日を重ねるにつれ気付いていく。ある時聞いてみたら素直に答えてくれた。俺が、彼が初めて手に入れた人間だということ。
まるで初めての動物の餌やりに戸惑う子供だ。たった一人で人間の世界にいて、ちゃんと獲物を、俺の心を太らせて食べるまで成功するのかが怖くて仕方がないのだ。
「楽しいよ。君が来てくれてからすべてが素晴らしくなった。ずっと傍にいてほしい」
そう答えれば、彼は喜びの表情の下で安堵する。食事中なのでキスは控えるが、テーブルの上でそっと手を握った。
伝える必要がないので言わないが、あの日俺の心臓は、彼が片目をつぶるより早くしびれきっていた。だから彼の魔法が、今の胸の高鳴りにどれほど寄与しているのかは分からない。さすがに生活にシームレスに入ってきた部分については補助があったと思うが、もし彼が一日一度俺を魅了し続けるのをいつか忘れてしまったとしても、この生活は何も変わらないだろう。終わりが来るのは、彼が十分に俺の心を見定めて、もう食べようと決心したときだけである。
それだって一向に構わない。ただ俺が日々苦心するのは、彼をよくよく観察して、魔法が効いていると思わせながら、まだ食べごろでないと感じさせる微妙なそぶりを研究することだけである。そうして一日でもこの幸せな生活を長引かせるのだ。
笑顔があふれる食卓で、水面下で互いに心を探りあっている。緊張感と幸福が絡み合ってたまらない。俺は今日も祈りたいほどに満たされて一日を終える。祈る先は神でも何でもいい。この悪魔を遣わしてくださって、本当にありがとうございますと。
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