揺蕩い
ぎゅっと絞った手ぬぐいからぼたぼたと足の甲に滴る、その水滴さえ温かった。頭の上の深い葉のどこかから、蝉が叫ぶ。叫ぶ。責めるように。苛むように。
「ぬくいだろ」
肩に声がかかる。川べりでぐったりしていたと思っていた筑波がいつの間にか隣に立っていて、俺の手元を見下ろしていた。
「ぬくいもぬくい。どうしようもないな、せっかく川があるのにこんなんじゃ。魚だってうだるだろうさ」
浅い川だった。幅は飛び越えられるほどで、入ってみてもせいぜい足首がつかるだけの小さな流れだ。ここはなんというか、森の中なのか、林の中なのか、ヒトが周りにいるのかいないのかもよく分からない場所だった。ぐるりと首を巡らせて、小川と反対の方を見れば、少し行ったところに土がむき出しの崖がある。そのまま見上げれば、先ほどまで筑波と二人で歩いていた林道が、とても登れやしない高さにあるのが見える。二人して足を滑らせた部分が小さくえぐれているのがなんとも憎い。せめて岩壁だったなら、なんとか指をかけて登れたかもしれないが、草もないぼろぼろと崩れるだけの土ではどうにもならない。
いま林道と述べたが、それは筑波の談であって、彼の行くまま付いてきて、はっと気付けば周りが木ばかりだった俺には本当に林道に入っていたのか、断定はできない。筑波の言うことは、よくずれている。
とにかく、濡らした手ぬぐいを広げて少し振った。気化熱でせめて人肌より冷えてくれれば御の字だ。そのまま筑波の首筋に当ててやると、ちょっと肩をすくめたあとに表情をゆるませたので、まあ効果はあったらしい。
「水はそれでもありがたいなあ」
「のんきなこと言ってる場合じゃないぜ。どうにかしないと、筑波お前、知ってる道なんだろ」
「すまん。知らんのだ」
ゆるりと閉じていた瞼が開き、俺の手に少し冷たい手が重なる。
「あの道は初めてだし、この辺りも初めて寄る。何となく入ってみただけなんだ。すまん、不知火」
不知火。俺の名前を呼びながら、重ねた手をずらして俺の手の甲をするすると撫でる。筑波は、特段申し訳なさそうな顔も、していない。ただまっすぐにこちらを見る筑波の顔が、突然ぼんやりと、揺れた。
俺は手ぬぐいを押し付けて、川に入って顔をすすいだ。
「俺は勝手について来たんだ」
二度、三度すすぎ、額から瞼から顎まで拭ってふたたび筑波に向き直った。
「なんでもいいが、帰らなければ」
筑波はぼんやりと揺れている。表情も、手も、足元も、正確には筑波の輪郭が、何かにまとわりつかれて、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。だから分かる。筑波は本当にこの場所を知らない。ただ、揺られるままに来させられたのだと。
筑波を知ったのは大学の中庭だった。まだ長袖を着てちょうどいい季節、授業の空き時間に中庭で時間をつぶしていた。隣のベンチに座っていた彼がすっと立ち上がった途端、彼の姿がゆらりと揺れた。
めまいだ。そう直感してすぐ足を踏み込んで、彼に突撃した。せめて頭をと手を伸ばして抱きついた。結果、ただ立ち尽くす男に知らない男が突然あつく抱擁しただけであった。
自販機で買った飲み物を差し出しながら、頭を下げた視界のもとで蟻が蛇行していたのをよく覚えている。
見えたかい。
そう筑波は言った。
俺が倒れそうに見えたかい。
俺はますます謝った。この上失礼な誤解をされたくなかった。彼はきちんと見ると、特段線が細いとか色が白いとかいうこともなく、病弱の気のない男だった。背は俺よりやや低く、目は印象的に大きかった。白目が白く、黒目が黒い。当たり前だけれど、筑波の瞳の特徴を表すにはこれが最善であるように思う。白目が骨のように白く、黒目が喪服のように黒い。筑波は、病弱の気はないが、遠くに死を連想させる、人間だった。
そんな珍妙な出会い方をしたから、以後すれ違うたび挨拶をするようになる。挨拶をすれば話をし、話をすればじゃあどこかに行こうということになる。彼は大概一人であったし、遊びに出るときはいつも二人だけであった。
また、筑波に何度か会えば最初の時に見た揺らぎが、一瞬の見間違いでないことはすぐに知れた。
それはいつも、気がつけば筑波の周りをただよっていた。ちょっと見て今日はいないかと思っても、しばらくするとどこからかやって来て彼にまとわりつき、彼の姿が揺れる。それが何なのか、聞くアテもないので分からないが、意思があることは感じられるほど、筑波の周りにばかり集まった。
おそらく、筑波は好かれやすい質だった。人ではない何かに。彼に近づくのは姿かたちのない陽炎のようなもので、果たして本人がそれに気づいているのか、俺には知れない。
ただ筑波の姿が揺れるとき、少し、心細くなる。
「帰らねばなあ」
筑波はそう言ったものの、崖を一度見やっただけで座り込んだ。
ひどく暑い。まだ八月も初めだというのに、木々があり川も流れているのに、葉の隙間から落ちてくる日差しが矢のように肌を貫く。空気もムッとして、全身をチリチリと熱してくる。
「大体の場所もわからないのか。知ってる道を外れてからどれくらい歩いた」
「どれくらいか……いやあ」
「そもそもどこまでが知ってる道だったんだ。最後に知っていたとこまででいい」
「不知火、お前、そう聞くがよ、お前はどこまで知っていた」
どこまで。舌の根が乾いて、固まってしまったようだった。答えにくいではないか。このところ自分は、彼といると頭がぼうっと、ぼうっとして、どこにいるのか、どこにいたのか判然としない、などということは。
「お前だってぼんやりしたもんだねえ」
筑波は笑った。声も立てず、両の目じりが垂れ下がり、両の口端がつり上がった。顔の前が揺らいで、その笑顔もぐにゃりとゆがむ。
カッとして、説教してやりたいような気持ちもあった。ただこういう事態も筑波となんども共にいれば初めてではない。崖から落ちてしまったのは初めてではあるが、知らない場所に来てしまったことは以前もあった。
にやにやと笑う筑波の腕をとって立たせ、歩を進める。休憩するにしても十分すぎる時間を過ごしてしまった。
「川沿いを行けばどこかしらに出るだろう。上にあがれそうな場所もあるかもしれない。ここまで歩いては来たんだから」
筑波はおとなしくついて来た。文句でも飛んで来たらさすがに何か言ってやろうかと思ったがそういうこともなかった。
筑波と出会ったのは、まだ長袖を着ていたのだから、春先であったろう。今は夏の盛りに入ったところで、だから計算しても三か月か四か月くらいしか、知り合ってから経っていないことになる。
それにしては随分多いような気がする。筑波と過ごしたのは。話し、食事をし、互いの家に寝泊まりした機会は。彼の揺らぎに身じろぎした回数は。俺が、自分でそうと知らず彼を見つめていた時間は。
筑波は目を引く人物である。失礼な物言いになるが、外見には取り立てて華やかなところがあるでもない。瞳は異質だが、それはしっかり見据えないと見えない部分だ。だけれども知ってからというもの、遠くでただ歩いていればすっと視線が引かれた。引かれてから、ああ筑波だ、と思う。ただそこにあり、輪郭を揺らめかせるのを見て、ああ筑波だと思う。思い続ける。彼がこちらに気づかぬまま去ってしまうまで、あるいは、こちらに気づいて滑るように近づいてきてくれるまで。それは筑波の特異性だ。俺が、彼を視界の中心に据えてしまうのは、彼に何かがあるからだ。共に出かけて知らぬ場所へ迷い込まされても、俺は筑波のせいだと思ったことはない。筑波が自分の意思でやったことではないのだろう、と思っている。彼の周りに漂う、未知の、現世でない者たち。それらに押されて、ささやかれて、筑波はどこかへ、知らぬ場所へ、進んで行ってしまう。往ってしまう。だから、せめて連れ立ち、帰るように促せるなら、俺は充分だった。心細く、なりたくなかったから。
黙々と川沿いを行く。地面は整備こそされておらず石が多いが、雑草も高くないので歩きやすい。巨石やら倒木やらに阻まれることなく、進むことができた。問題なのはひたすらに暑さと日光であった。川が見える程度の木陰に入りたかったが、進むうちに木陰が遠く狭くなり、早く往くためにはこだわっていられなかった。かいた汗は川で流し、手持ちの飲み物が空になれば川の水を飲んだ。しかし熱線に頭を焼きながら歩き、結局くたびれて細かな休憩を繰り返すうち、だんだんと陽は傾いたが、足は痛み、体力も尽きつつあった。
時々筑波はよろけて俺にしがみついた。俺もよろけて筑波を頼ることがあった。俺たちはぐらぐらと揺れ、掴みあううちに、すっかり座り込んでしまった。
今日はもうここで越そう。そう言ったのは筑波だった。
仕方がない。今すぐに死んでしまいそうなほど空腹なのでもない。ここで一晩明かして、明日また道を探そうと心まで落ち着けそうになったところで、チラと視界に瞬くものがあった。
「明かりが見えないか」
それは視線のまっすぐ先に会った。白、白、白の明かりだ。ぼんやりとかすんではいるが、人の灯す明かりが見えていた。いきおい俺は筑波を振り返り、いざ走ろうとこそ言おうと思ったが、筑波の顔色は沈んでいた。縫い留めるように、筑波は俺の服の裾を握った。強く。
「いや、あれはまだ遠い。今急いでもあそこまではいけない」
「なぜ、かすんじゃいるが結構な大きさだ。歩いて行ったって着けるんじゃ」
「川沿いを歩いているんだ、危ないよ。今夜はここでいいだろう」
「良くはないだろ。こんなところにいるよりは」
「いいんだ、行くな。行かないでくれ」
「だって、筑波」
「筑波」
「筑波」
「いや、筑波、ここにいよう」
あれ、と思った。俺が言っていることと筑波の言っていることの区別が、付かなくなった。いや、ただ筑波がふざけているのか。向こうに行きたいと思っているのは、ここにいたいと思っているのは、筑波か、俺か。筑波に、ここにいようと云ったのは、俺は。
昼の蝉の声が蘇ってくるようだった。じりじりと、わんわんと、責められる。責められる。筑波と共にいないのかと、責められる。
「ここにいよう、筑波、夜は危ない。夜の中にいるのは怖いんだ。ここにいてくれ。俺といてくれ。俺とだけいてくれ」
俺の服を掴む指が、たぐるように胴を張って、そのうちに筑波の腕が、体が、絡みついていた。
あるいは、筑波の体に、俺の腕が。
「お前に抱かれていないと、俺はもうこの夜を越せそうにないよ」
そう、筑波は言った。そう、筑波は言ったろうか。頭がぼうっとする。筑波にまとわりつく揺らぎが、こんなに近づいてしまっては俺の頭にも移っているのではないか。そんなことを考えてしまうほど、正常な回路を脳に組めなくなってしまっていた。
「不知火」
明かりが。明かりがあんなにも近くにあるように見えるのに。
「不知火、お前は」
耳元に寄った唇が、俺の名前を流し込んでくる。途端に、鼓膜が崩れ、耳道から甘い何かが片田の内側へ滲出していった。重ねて、重ねて名を呼ばれるほど、恐ろしいはやさで全身へ廻っていく。なぜ、とまだ侵されていない、これまで清廉であった脳の一部分で考えた。なぜ自分は筑波に抵抗できない。なぜここに至っても筑波を守ってやらねばならないなどと思う。なぜ、こんなにも従ってしまいたくて仕方がない。考える最中にも筑波の声は染み込み、柔指にかりかりと引っ掻かれ、はじから陥落していった。考えない方が幸福だと、次々に知っていった。
そして、瞼を自分のものでない手でぬるりと閉じられて、俺はとうとう、体すべてを、揺らぎの中に溶かしてしまった。
結局のところ、俺たちは自分たちの住む町に帰ることができた。
明るくなってみれば、なんだったのかというほど容易く道路を見つけ、それをたどって知っている地名まで出られたのだ。
適当な店で飯を食い、電車を乗り継いで最寄り駅に着き、家に帰る。一晩外で過ごしただけなのに、屋根壁の、シャワーの、エアコンの、布団のなんとありがたいことか。カーテン越しの陽光と涼しい風に気持ちよく自分を揺らし、筑波の横にそっと沿った。心地よい揺蕩いに、抱かれるまま。
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