誘惑するゲーム
心臓を軽視してはいけない、と叱る声は重く厳かなのに、俺の胸の中はみるみるうちに甘くうるけていった。夜の頂に行われる遊びは今夜でちょうど八回目に至る。学校のグラウンドを思わせる白砂利の地面に、俺の身体の輪郭が寸分違わず線引かれている。事故現場において遺体の痕を表わすあの白線が、より精密になったような表示の所々に、大小の数字が書き込まれている。左腕がまるごとと右耳が欠けていて、自分が既に二回負けたことをはっきりと思い知った。敗北は幸福につながる。俺は負けたくて負けたくて仕方がなかった。八回も行ってまだ二回というのがもどかしすぎる。他の六回分は全くただの停滞に過ぎない。たとえ人がそれを延命と呼ぼうとも。
「ひとおもいにした方が良いじゃないですか。てっきり初手で終わるものだと思っていたのに」
髪の毛を耳にかけようとしたが、失われた右耳を当然素通りしてすとんと落ちた毛先が顎を叩いた。その経過を見た相手の表情の奥がねじれる。俺の首を片手で巻けそうな長い指を組み合わせ、難しい顔で唸った。
「初めの取り決めを聞いていなかったのか、脳と心臓は選ばないと言ったじゃないか」
「聞いていましたけど、俺は承諾していませんよ。なぜ選ぶことができないんですか。貴方の好物はなんです」
「脳と心臓」
「ほら」
「私はここに外食に来てるんじゃない。れっきとした仕事で来ているんだぞ」
「仕事って、これ賭け事でしょ。威張らないでくださいよ」
更に言い募ろうと相手の口は一度大きく開いたが、上下各三十本はあろうかという歯をお目見えさせただけで、のろのろと閉じてしまった。悪魔のくせに説教しようなんて思うのがいけない。もっと初夜のように、俺を言葉で誘って、悪いことをさせてほしいのに。
瞬間のことはよくわからない。不動のはずの道路標識が軸ごと視界を大回転していたのは覚えている。実際回転していたのはきっと俺なのだが、その時既に主要な神経が切断されてしまっていたのか、自分の体が動いているという感覚はなかった。暗転の寸前、俺が愛してやまなかった愛車がトンボの死骸のような無残な姿に変貌していて、刹那存分に落胆した。残念だ、と思った。次の休日の洗車を楽しみにしていたからだ。
「さて、どうせ今のは無効試合でしょうから、ちゃんとやりましょうか」
地面に描かれた輪郭から少し離れ、相手に背を向ける。白砂利はどこまでも続き、天はどこまでも夜空が続く。はての交わりでは暗い赤が生じていて、命と死との両方を想像させた。相手が言うに、ここはまだ死の国ではなく現世に近い空間だそうだが、あの赤は十分に地獄じみている。どことなく風に鉄臭さを感じながら、相手の声がかかるのを待った。
「君は」
振り向け、と言われるはずだったのに、単なる会話を続けられて傾きそうになった。少しだけ、苛立つ。そろそろ時間の消費にも退屈しているのだ。
「生きる執念があると思ったから、私は取引を持ちかけたんだ。抗った上で決断してもらわないといけないんだ。でないと食っても美味くない」
「そうあけすけに言ってほしくないですね。せっかくだからおいしく召し上がってくださいよ。左腕、そこそこポイント高かったでしょう」
「気味悪いよ、何が楽しいんだ」
「こっちのセリフなんですけど」
単純に、俺は悪魔に身体を搾取されている。悪魔が俺の身体の一部を指し、俺はそれを見えないようにして自分でどこか一部を指す。答え合わせをした時に、一致していればそこを悪魔に食べられる。部分部分によってポイントの割り振りが異なり、生命維持に関わるところほど配点が高い。死なない範囲の損傷で基準点に達することができたら俺の勝ち。晴れて現世で意識を取り戻すことができる。死ぬレベルまで損傷してしまったら、現世には戻ることができるが俺の負け。悪魔に食べられた部分は、買っても負けても失ったままだからだ。俺は既に現実で死の域にいたはずだが、ひょいと拾われて生きながらえている。
ぐずぐずとゲームを始めない相手にしびれをきらして、俺は振り向いた。二歩、三歩と近づいて、青ざめた相手が空へ逃げる前に異様な細さの腕を捕まえる。服の生地が上質で、ほんの少しうっとりしてしまった。
「ここ、ボーナスステージなんですよ。デッドエンドのあとのミニゲームっていうか」
「何を、言っているのか、分からない」
「俺のことおいしそうだって言ってくれましたよね。おいしそうだから声をかけたんだって。嬉しかったなあ、知らない人に褒められるのって初めてだったから」
相手の四つ並ぶ瞼の全てが困惑に細くなった。もし、体が四分割されてそれぞれの眼を楽しませられるならそれでもいいと、俺は心から思っている。
「死ぬまで誰にも愛されなくて、死んでやっと貴方が見つけてくれて、誰かに求められる喜び、っていうんですか、そういうのを知ったんです。俺だって嫌がるフリくらいしたいですよ。拒否して無理やり奪われて、貴方の思いの強さを感じたいから。でも駄目なんです。俺は幸福に届きたい。早く全部貴方のものになってしまいたい」
言い終える前に、掴んでいた腕は振りほどかれてしまった。やはり片腕だと力がうまく入らない。弾かれた指が痛いことまで嬉しく思う俺を、そろそろ信じてほしい。がっくり首を落とす相手の脳天を桃色の眼差しで見つめた。
「これでは続ける意味がない。私の味覚は絶望向きなんだ。」
「仕事なんだから、好き嫌いしないでください。それとも中止して、俺の脳を食べますか」
「食べないよ。契約不履行は重罪だから。それに、君の脳もきっと美味くない」
どうしようもなく笑顔が崩せない俺に相手は萎れた視線を向ける。さあ、はりきって、と言いながら俺はもう一度体を反転させた。外傷続きだったので今度は内臓を狙ってくるかもしれない。一発終了に近い臓器を考えながら、もっと生物の授業を真面目に受けていればよかったと後悔した。無意識のうちに鼻歌を歌う俺に、もう良い振り向け、と相手は言った。今夜が終わる前にもう少し愛が伝わるよう言葉を工夫しよう。やがて諦めて、俺を食べつくす気になってくれることを期待して、俺は腎臓を指しながら振り向いた。
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