出立
ぴしゃりとつま先が冷たく濡れて、ようやく波の音を思い出した。ずうっと聞こえていた音なのに、たったひと月、島にいただけで自分の心臓の音のように鼓膜が慣れてしまった。日焼けた皮はとっくに剥けて、どう痛かったのか思い出せない。島に着いた頃はどうにも自慢できないなまっちろい腕だった。オトはその腕を見て、自分と同じだと嬉しそうに笑った。島の人間は男も女も浅黒い肌をしているからだ。
「おれを殺すか、兄さん」
オトの眼球が月明りを吸い込んで、青く光っている。波を思い出したと同時に見ているものの存在もだんだんと明確になっていく。眠りながらゆれる森の影、海と空の境を教える星、女の肌のような砂浜、オトの服がひどく朽ちていること、肩が細いこと、髪が風によくなびくこと。
「大げさ言うね。中間の言葉、教えたろ」
「いいよ、いなくなったら全部なくなる。兄さんがいなくなったらおれは死ぬんだ。オトは死ぬ。人でなくなるよ」
オトは手の指を獣のように折り曲げて、服の胸元にこすりつけた。何気ない動作だったが、その指先はひと月前よりきれいになったはずだ。俺は懐から軟膏の入れ物を取り出して、オトの手をとり握らせた。やはり、もうずいぶん肌の色が離れている。
「お前が人かどうかはお前が決めるんだ。誰にも呼ばれなくても、誰にも見られなくても忘れるな」
「思ったって虫は鳥にならない」
ひっこめようとした手を容器ごと握り返された。振り払おうと思えば簡単にできた。オトの指の力は赤ん坊よりも弱い。触れられると、寒気がする。
「けど鳥だと皆が言えばそれは鳥でいられる。そう言ってくれるところへ、連れて行って」
死ぬだの殺すだの言うオトの顔はもう半分死人のように平坦だった。明日からの生活におびえるにはオトはあまりに長く死んでいた。魚も取れず、食材を加工することもできず、神格を帯びる血でもない。太陽の光もオトを避けるように、いつまでも白く小さな体のまま。人の形をしたなにかは、人に混じれずとも人のすることをしようと、体だけを生かしていた。
「夢を見るな。オト。俺が神様に見えるか」
空いていた手でオトの手をそっと引きはがし、隆起することのない薄い腕の筋肉をなぞった。
「生きてろ。そうすれば死ぬより早く俺に会える」
オトは返事をしなかった。首を縦にも横にもふらず、もうほとんど名前を失った生き物になりかけて、じっと俺の手を見ていた。
この島の夜は、肌と空気の境界がわからなくなるほどぬるい。手を放しても風が通り抜けるまで、お互いの熱も知れなかった。乗り込んだボートは賢い無音で波にすべり、早く出ていけと促すように岸を離れた。
オトは立っていたところから一歩踏み出すことさえなく、両腕をだらりと垂らして俺をみていた。オールをこぐ音に混じって、最後の声が聞こえた。
「神様じゃない。人だった。だからうれしかった」
薄情な月明りの中にたたずむオトは、きっとお互いの姿が見えなくなるまでそこにいるのだろう。俺はボートの底に視線を移して、いつか汗が垂れるほど懸命に漕いだ。死にかけを殺さなかったのは何年振りだろうと考える。何人の患者をオトのようにしてきたか考える。もうすぐ腰につけられる縄のことを考える。考え、考え、ひたすらに腕を動かした。娑婆にもう一度出るまで、どうか、どうか、俺が最後に救った人間が、生きていますように。
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