可愛そう
時々、自分がどの瞬間にいるのかわからなくなる時がある。夜、冬、閃き、痛み、音、熱。ぐるぐると回る激しい渦の中、雨ばかりが絶える事なく降り続けている。
入ったこともない、景色として見慣れた店の下りたシャッターの前で、ただ時が過ぎるのを待っていた。暗い道の遠くで、大木さんの車のヘッドライトが猛獣の瞳のように光っている。フロントガラスの向こうで人影がみじろぎするのがかすかに見える。運転席にいる大木さんの部下がタバコの灰でも落としているのだろう。随分待たせてしまっているのに、大木さんはちっとも戻ってあげようとする気配がない。軒下に身を寄せる見すぼらしいおれに並んで、上等な黒いスーツに雫を垂らして立っている。とても近い所で、おれを見下ろしたまま。
ざあざあと流れる雨音が耳の中で膨らんで何も聞こえない。額よりもやや高いところで、大木さんの唇がゆっくりと開いたり閉じたりしている。両耳に手をかざして、聞き取れませんという形に口を動かすと、それは一度ぴたりと上下が貼り合わされた。
大木さんの唇の端には、顎下まで伸びるケロイドがある。過去の抗争の最中、上役を刃物から守った時についた傷痕だといつか聞いた。きっと大木さんにとっては勲章のようなものだから、治すこともしないのだろう。傷があるのは可哀想だから悲しいとおれは思う。けれど反対に、いびつな肉の盛り上がりなんかを大切にするこの人がいとしくてたまらなくなる。
おれの視線がひとところに留まっているのを、大木さんは気がついているだろう。表情を全く変化させないまま、そこを隠すようにおれの視界から外れて、唇は耳元に寄せられた。煙のにおいが、する。
「雨が降ると、うずく」
おれの背中に何かぽつぽつと当たる。それが大木さんの髪から滴る雫だと気づく頃に、喉に自分のでない指先が這い始めた。
「お前のここも、そうだろうな」
見えなくなってしまった大木さんの傷を思いながら、自分の喉にあるほとんど同じ形のケロイドをなぞられる。そこはおれから夢を奪った全ての裂け目だ。
歌を歌う定位置だった道端。雨が降るたびに慌てて駆け込んだ軒下。あの日その場にいただけのおれを巻き込んだ暴力の渦。渦の一部にいた大木さん。無くなった声。弦の弾き方を忘れた指。時計の読めなくなった頭。傷。全てがいまこの場にある。おれの目の前は真っ暗な夜。
大木さんの肩を叩いて、車の方向を指差す。身体を離した大木さんに、待たせていますよ、と伝えるために意味を持たない口を開いた。
おれはバカみたいだったろうか。だから大木さんはおれの顎を掴んで、のけぞらせた首の傷を舌でなぞるのだろうか。天を向く視線の先で、トタン屋根のへりから雨粒が膨れては落ちていく。風が吹き込んだ拍子に、その一つが目の端に飛び散った。
良かった。おれが泣いていることを、知られないで済む。
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