遭難
物心ついたときには、地面にたたきつけられていた。26歳のときだった。
物心というのは自分や他人の存在を認識できるようになったり、自分が置かれている状況をあたまで理解できるようになったりすることで、ほんとうはもっと小さい時に発露しているべきものなんだと思う。だけど、記憶の始まり、周囲の認知という点で決めるならば、僕のそれは26歳のときと言わざるを得ない。7月7日の、ことだった。
ベランダの窓から、くらい空を眺めていると、背の向こうでアパートのドアが開いた。きしんだ音の方を見ると、大きな男の影が、首をすくめて鴨居をくぐってくるのが見えた。白いビニール袋が、ぼんやりと浮かんでいるのを見て、すっかり部屋が黒く落ちていることと、電気をつけていないことに気が付いた。ガサガサと音がする。
「磯貝君、こんばんは」
「鍵をかけてくれよ」
磯貝君はドアの取っ手のあたりをまさぐっていたが、そこにあるはずの錠前は、最近びくともしなくなってしまった。こわれているんだよ、との僕の説明を待たず、舌打ちをたたきつけて、彼はこれまた大きなスニーカーを放り投げるようにして脱いだ。
「何を買ってきてくれたの?」
「酒」
「お酒、磯貝君飲めるの? 未成年じゃないの?」
「うるせえボケジジイ」
重たそうなコンビニの袋をちゃぶ台に乗せると、どしり、がらがら、と缶や瓶がくずれる音がした。無鉄砲に、未成年が酒を飲むのはよくない。からだにも脳にもひどい毒だ。コンビニの人も、どうして確認もせず、売ってしまったのだろう。確かに磯貝君は背丈もあって、それに合わせて態度の大きいところがあるから、一見して成人だと言われても疑いようがない、けれど、事実は事実として、成人。成人式。磯貝君の、成人式。
「あ、成人式にスーツ着てたね」
あたまの中で徐々に像を結ぶ記憶を寄せ集めていくと、確かに成人式の時の写真を見たことがある。知らない人たちの中に並ぶ、背広姿の磯貝君は、あまり真っ当な人間に見えなかった。あれから、どれくらい経ったのだろう。3年か、4年か、5年か。時間の関わることは、どうにも脳が働かない。
「おい、座れよ」
ぼんやりしている僕を見上げながら、磯貝君はビールのプルタブに指をかけていた。
外から風が入ってきて、後頭部が涼しくなった。引き起こされるような炭酸の音。ここをはなれて卓につく気にならなくて、窓枠に背中を押し付けたまま動かない僕を、磯貝君はもう一度見上げて、今度はあごで座るよう促される。
「いいよ、僕はここで。外を見てたんだ。星が出るようになってから」
「今日曇ってんぞ」
「うん、そうなんだけど……、でも、今日、7月7日なんだ」
電気のついていない部屋の中、すぐ窓の横にある外灯の光を吸って、磯貝君の細い目がすこし大きくなった。さらに何か言われてしまうか、と構えていたけれど、彼はお酒の缶を持ってひざを立て、僕を押しのけるようにして窓から身を乗り出した。アルミの枠が体重をかけられてぎしぎしと、おそれの声をあげた。
「……しょうがねえやな、曇ってんだから」
短いひげの生えたあごをさすりながら、怒ったような顔をして磯貝君はビールをあおった。彼の周りにはいつも、あらあらしい空気がよどんでいるけれど、低い声はそっと、残念そうに落ちていく。ふかい底に沈むその響きが、ぼくは少しすきだ。
「晴れにくいらしいね。この日はさ。新聞を拾ったら書いてあったよ。望みがなくなっちゃうよね」
天気予報というのは、統計でできているらしい。細かいところはよくわからないけれど、たくさんの情報の積み重ねでどうも晴れにはなりにくい日と言われている、らしい。7月7日は。人間による正確な情報の保存なんてたかだか100年か200年だ。この星の永らえてきた時間に比べて、それは生まればかりの雛が瞼を開くまでの時間よりも短い期間だ。予測を立てるのはあまりに早計じゃないかと思う。人間は脳の大きさにくらべて物の保持が下手だ。永久性を何一つ持たない。とっくに形がかわったのものを大義のように振りかざす。
けど、だからといって、僕の知っているもっと果てしない情報は、もう、僕の頭の中にはない。
「お前さ」
缶は、磯貝君の手の中で瞬間的に握りつぶされていた。彼は僕のほうを見ない。だから僕もそろって雲ばかりの空を見上げた。
「本当に天の川が見られたら、元のとこに帰れんの」
「そのはずだよ」
気が付いた時にはもうコンクリートの上だった。僕は26歳だった。名前もある。保険証も持っている。僕の周りの人がそれを調べてくれて、それをくれたからだ。それが自分のものだと思えばそうだし、違うと思えば違うような気がした。目を開いた瞬間の、灰色の凹凸と、痛む首をほんの少しだけ動かしたときに見えた空、たくさんの星、大きな天の川。その始まりだけが鮮明で、その他のことは僕以外の人が運んでくれたから正確には知らない。病院には長くいた。白と嘘の緑がのびる部屋で僕は一人だった。今は磯貝君が与えてくれたアパートで暮らして、彼が買ってきてくれる食べ物を食べて、彼がくれた服を着る。そして天の川を待つ。あの輝く大河だけが、僕の持っている、たった一つの過去だ。それは、知っている。
「僕は待つんだ。待っていればいいんだ。いつか帰れればそれでいいよ」
「先に老衰で死ぬんじゃねえの」
「ひどいなあ、まだそんな年じゃないよ。まださ、僕、今、何歳なのか、わからないけどさ」
ははは、と喉から空気が漏れる。記憶の始まったときから僕はこうして息で喉を震わせることができた。磯貝君は決してこういう呼吸をしない。
「うるせえ化け物」
化け物、ときどき磯貝君は僕をそう呼ぶ。僕の境遇を抱え込んでくれていながらそう呼ぶ。そうして僕の顔を両手で挟んで少し黙る。この時間があまり好きじゃない。彼がすごく悲しそうな顔をするので、僕まで悲しくなってしまうからだ。
風が少し強くなってきた。雲は流れ流れていくだろうに、よほど高く層をなしているのか、天上の蒼を見せてはくれない。今夜でなければ晴れることもあるだろう。磯貝君の、少し皺の寄る口元をいくら見つめても、どうにもならない。
僕はいつまでここにいるのだろう。磯貝君の閉じた瞼を眺めながら、何百回と繰り返した問を浮かべる。僕は、いつまで、ここにいなくてはならないのだろう。
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