あなたのために
橙色の魚眼レンズを覗いているような、そんな風に物が見えていた。魚眼レンズで覗き込む西京焼きの身が膨れて実際よりも大きく見える。ほとんど箸をつけてもいないのに胸焼けがした。額と前髪をこすり合わせて、醸造されたため息をつく。自分の息で酔えば、無限機関だ。
きっと自分の顔が虚ろに、低くなっているだろうと埒もなく思う。
問題は。口の中でつぶやく。問題は、カウンターに並んだ惣菜の大皿の向こうから、大気圧のようにひっしりと押して来る、視線と熱だ。自らの瞳でそれとぶつかるのは易いだろうから、わずかに見える割烹着の、上の方を見られない。
「それ、俺が焼いたんですよ」
猪口を指先に貼り付けたまま動かない俺を、そっと促す声が落ちた。発言した割に、割烹着に刷られた藍色の線は一微たりとも動かない。
「見た目より中身の方に自信がありますんで」
かぶせる声もあくまで薄く安らかだが、俺は身の内の熱に追われてやっぱり動けない。酒気にここまで覆われてしまうと、本当に食欲がないのか、ただ手先を動かすのが億劫なのか、声の主の圧してくる期待に応えるのが息苦しいためなのか、分からなくなる。分からないまま、ともかく黙ってしまう。
池の底に沈む石のように沈静している二人の側に、すっと大将が寄ってきて
「厚かましいこと言うんじゃねえや。すいません、馬鹿で若いもんで」
と機織り機に似た口調で言い置いてまた去っていく。
荒くも柔らかな干渉は、確かに張った空気を和ませてくれた。ようやく手が生き返り、箸をいれれば白い身がほろほろとはがれる。舌に乗せ、奥歯で押し、唾液ぜんたいに調味と魚の味が染み渡るのを、その一口に本当に時間をかけた。橙の瞼を遅く上げ下げし、ようやくカウンターの向こうの男に挨拶ができた。
じっとこちらを覗く男の目は、俺の顎や頬や鼻の動き、そして瞳を透かして味覚の反応すら読み取ろうと言うように、深く潜って来るものだった。しかしすっかり酒浸りの顔じゃわかりにくいだろう。
「うまいよ」
と唇を舐めながら言うと、男はぐっと身を乗り出してきた。
おかげで再び男の顔は視界の更に上のほうへ逃れてしまったが、俺はもう次の一口のために手を動かしていた。指まで酔ったか、ひどく動作が鈍いものの、なんとか口に運べる。染みる、染みる味。
「そうです、味わって下さって、ありがとう、ございます」
男の声が耳元でした気がした。それは魚の身よりも脆く崩れそうなほど微かで、こうこうと耳の奥で走る血の巡りにすぐに流されて行った。自分の体が遅い分、周りのことが時とは関係なく速く感じる。何事か呟いた俺の声さえもあっという間に離れて行ったが、男がまた「そうです」と、ため息のように言った。照明と血管を透かした橙色の卓で、魚の身はますます膨れていた。
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