その夜に
色の洪水があって、音の洪水があって、寒くて寒くて指先がちぎれそうなのに、背中だけがカッカと熱くて、とめどなく流れる汗が下着をぐっしょりと濡らしていた。
右腕が動かせない。肘を掴む手が強く、押すことも引くことも出来ない。
「飯食いにいきませんか」
男は言った。ありとあらゆる攻撃的な刺激の中で、それは俺の耳に不思議と明瞭に入ってきた。
「一杯、二杯なら酒もつけます」
俺も手持ちあんまりだから。そう男は笑った。しびれた手から血が引くように力が抜け、握り締めていた物が鞄の底に落ちた。
男に引かれるまま、いつも前を通り過ぎるだけだった小さな居酒屋に入った。外は人がごった返していたのに、カウンター五、六席ばかりの小さな店には客の一人もなく、夢に入ったようだった。
店主と親しそうでもない男は、ビールでいいですか、と聞いた。首を振ると、ウーロン茶を二杯頼んだ。突き出しの小鉢が置かれ、ついでにいくつか注文するのが聞こえた。あまり言葉が聞き取れない。意識をちゃんと合わせないと言葉の意味を拾えない。
いつの間にか料理が目の前にあって、手元はウーロン茶のグラスを掴んで、食べ物が腹の中に入っていって、背中の汗が乾いていく。男は、やっぱり良いですか、と言って一杯だけビールを飲んだ。何も聞かれず、何も話さなかった。皿が空くと男が次を頼む。指が箸を持つ感触が分かる。尻と腿の裏が椅子に接しているのが分かる。耳鳴りが遠くへ引いていく。
腹くちくなって、ぼんやりとしていると腕を引かれて店を出た。空気が頬を刺す。男は、それじゃあ寒そうだと言って、ポケットから取り出したハンカチを広げて細く畳み直し、俺の襟元に押し込んだ。次に息を吸うと駅の裏改札の前に立っていて、鞄の取っ手を緩く握っていた。歩行者信号の鳥の声が駅舎の反対側から聞こえる。びくりと不随意に腕が動き、中で滑る音がした。空の鞄に一つだけ入れてきた物。手を傾けると行き来する。さー、ことん。さー、ことん。さー、ことん。さー。
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