つられ水
ひりり、か弱い音が耳たぶを引っ掻くくすぐったさに、思わず肩をすくめた。タンクトップにむきだしの肩に髪の毛先が触れる。くすぐったさは少しも解消されないまま、俺はそれでも離すことない指先に集中した。
「うろちゃん、扇風機、だめ?」
「だめえ。すごいことなるよ、飛び散って。その片付けも手伝ってくれんの?」
脳天を撫でつけるようなうろちゃんの声にため息が出る。途端に手元から散ったうろこが電灯を反射してキラキラ光る。キラキラして、きれいだ。きれいだが、扇風機でぶっ飛ばしたら部屋のありとあらゆる隙間に入り込んで五年先まで発見され続けることになりそうだ。
時計の音がいつもより大きい、午後十時。住宅街の中にあるアパートは隣人の生活音が響くこともなく、規則正しく刻まれている。海の底で寝かせたワインがあるので飲みに来ないかと誘われて、確かに最近テレビでそんなものを見た記憶があったので好奇心から訪れたのが、迎えたのは酒瓶は傍ら、床一面のレジャーシートの上に寝そべる全裸の友人であった。
全裸といってもインパクトは通常のそれとは少し異なる。うろちゃん、魚野(うろの)の体はつま先から頭皮のキワまで鱗でおおわれている。緑がかった薄青の体がグラビアよろしく隙間ばかりの胸を寄せてうつぶしに寝そべり、よろしく、とウインクを飛ばして来たときは度肝を抜かれながら大変ウケてしまった。
うろちゃん曰く、成年になったので鱗替えを手伝ってほしいとのこと。初耳の風習だが、要は鳥類が雛鳥のむく毛から大人の羽に生え変わるように、人魚にも鱗から皮膚への生え変わりがあるらしい。うろちゃんが怒りそうなので雛鳥に例えたが生物学的にも脱皮の方が近いと思われる。体が硬くて届かねえんだわ、という足先で剥がれかけていた鱗をつまんでみると、それこそ皮がむけるように剥がれ落ち、その下に白銀色の皮膚がお目見えした。触り心地はサンマを指で押した時のそれに似ていた。
「一晩で終わらせないと乾燥がひどくってねえ。水郎は足先と背中をやってもらって、保湿液つけてってもらいたい。他は俺自分でできるからさ」
「尻は?」
「やりたきゃやっていいよ」
やりたかったが、そう言っていいものかどうかは分からなかった。
そんなやり取りができたのも始めだけで、工程は単調かつ注意力を必要とするものだった。一気に剥き進められるかと思いきや、まだ新しい皮膚からはがれていない部分は、一度、潮の香りのする保湿液を塗り込み、少し揉んで、剥がせるか慎重に試み、まだくっついていれば再び塗り込み、揉む。そういう作業をミリとかセンチ単位で進めていく。うろちゃんは立派な成人男性なので、体格もまあまあある。長い、長い夜になってしまう。目当てのワインも冷蔵庫に片づけられてすっかり遠い。
「だまされた、酒だけ飲めるもんだと思ってた。久しぶりに連絡来たから浮かれてたのに」
「ごめんねえ。一年ぶりか、二年ぶりか? マルチじゃなかっただけましだと思って。それに酒はちゃんと用意してあるのよ」
「海底ワイン?」
「海溝ワイン」
俺の実家で寝かせたやつだから。そう得意げに言われたが生活圏が違いすぎて今一つピンと来ない。しかしどちらにしろ頂いたことのないものなので楽しみなことは楽しみだ。
ようやっと背中の半分までたどり着いたあたりで一旦、やけになって肩から保湿液をぶっかけて抱き着いてみた。はがれろ、はがれろと言いながらめちゃくちゃに頬ずりしてみたが特に進みはよくなかったし、うろちゃんも普通にやって、と言っただけで悲しみだけが残った。
午前二時を回ったあたりでようやくほとんどが終わった。うろちゃん自身は顔から始めて、前面とプライベートゾーンとを丁寧に剥がし終え、俺も自分がした部分を目を皿にしてチェックをしながら終えることができた。シャワーを浴び、白銀のつるりとした肌になったうろちゃんは、深夜の照明の下にあって目が痛いほどまぶしい。
「ありがとう水郎、これでちゃんと海に入れるわ」
レジャーシートも取り払った床の上で、ポンと景気の良い音を立てて、フジツボだらけの瓶が開いた。注いでくれたワインは普通のワインよりまろやかなような、奥深いような、よくわからないが美味い気がした。
「今まで入れてなかったの?」
「普通には入れてたんだけど、親の田舎なんかにはなかなか行けなくてさ、深いんだわ俺らの故郷って」
うろちゃんの一族は海のそれはそれは深いところで生まれ、浅海や陸上で成長し、やがて子供ができたり余生を過ごすときには深いところへ帰っていくのだという。今の時代は陸でそのまま寿命間近まで暮らす人も多いという。うろちゃんは金融機関に勤めていて、今はパートナーもいないそうなので、陸で暮らし続けるタイプのはずだ。
「でもね、鱗が落ちると気分が変わることもあるんだってよ」
「体質的に? 陸で生活しづらくなるとか?」
「いや、というより、呼ばれるというか。だって、この体で一番合う場所があるって知っているんだぜ。そこにさ、行ったら心地よくて、戻りたくなくなるんだって……」
グラスが空く。ワインを注ぐ。頭がゆっくりと旋回する。
うろちゃんの唇の端に鱗の切れ端がひっついていた。俺は、顔を近づけてキスをしながらそれを取ってやる。そんなことがしたかった。
「うろちゃんは、今、どうなの」
現実のさもしい俺はグラスを両手でぎゅっと掴みながら、ダサい質問をしている。
「海に? 行きたいよ。でもまだ行かないよ。仕事あるし」
すっかり滑らかな肌を惜しみなくさらして、うろちゃんはドライに笑う。現代人って最高だ。
「水郎、俺に行ってほしくないでしょう」
「そ、う、それは、まあ、そうよ、ダチだから」
「うんうん。だから水郎に手伝ってもらったんですよ。送り出してくれるようなやつだったら、俺は帰っちゃう。俺自身は知らんような場所に。頭に植え付けられてたみたいにぐいぐい惹かれて」
笑顔がうろちゃんからすすいだように消え去った。数秒のことだ。次にはまた唇が上向きににじむ。俺の手に手を重ねて、ぬるいと味が変わっちゃうわよ、なんて親切なことを言っている。
俺は数秒前の浅はかな質問をした自分を呪いながら、酒に震える手を伸ばして、やっとうろちゃんの口の端から最後のかけらをとってあげた。これで彼は完全に海を待つ身だ。そう頭に浮かべた瞬間に、取ったそれを口に入れていた。
えっと濁った悲鳴をあげたうろちゃんを前にワインで流し込む。
「うろちゃん、もっと俺のこと誘えよ。俺はダブったからまだ学生だし、いつでも付き合うからさ」
「おお水郎、なんて頼りがいがあるのか?」
疑問符に語尾を崩れさせながら、うろちゃんは思い切り笑った。このためなら何だってできるさ。俺のできることはそもそも少ないけれど、できることなら何だって。彼の姿がどんなに変わろうと、初めから終わりまでひとめぼれは続くのだから。
0コメント