仕方のないこと
海へ行きたい、と言われたとき、何か頭に入りこむような違和感があったのだけれど、焦点を合わせることができないまま学校の帰りにくだり電車に乗り込んだ。期末試験の最終日、ガタゴト揺れる隙間に腹が鳴る。いつもより軽い鞄が、窓を透かして突き刺さる日光に焼かれていた。
隣に座る矢野に断って、日除けを引き下げた。遮る間際に見た窓の外では紫陽花がいくつも丸く咲いていた。帽子をかぶったお年寄りがちらほらいるのも見えた。平日だから比較的人のとおりは緩やかに見えたが、週末は歩くのも難儀するようになるだろう。自分がいつか花を見るためだけに出かけるなんて想像もできない。日除けを降ろしきり、体をもどして座りなおすと、矢野の膝から紫陽花がこぼれ落ちた。
え。空っぽの喉から声が出る。さっきまで携帯電話を握っていた矢野の手は、山のような紫陽花に埋もれて見えなくなってしまっていた。電車が強く揺れたはずみで、ひとつ、ふたつ、ぽろぽろと落下していく。はさみで切ったような鋭い緑の茎が天井を指した。落ちた一つが、向かいに座る女の人の足元にまで転がり、女の人は顔をひどくゆがませてそれを避けた。同じ車両に乗り合わせた人は多くないが、全員が矢野の上に膨らむ青紫を眺めている。矢野は誰にも視線を返さず、ただぼんやりと抱えていた。夢を、見ているような顔をしていた。
どうしたの、それ。
周りから向けられる視線と、きっと同じ顔をして、俺はできるだけ小さな声で聞いた。しばらく、間をおいてから、矢野は首を左右に振った。一度目はゆっくり、二度目はまるで、言い張るように強く。それからすぐに肩が震えだして、うつむいたまま泣き出してしまった。咳をこらえるような、苦しそうな、小さな子供の泣き方だった。
体に水平の重力がかかって、海岸に一番近い駅の名前が見えた。俺は矢野の腕を引いて無理やり立ち上がらせた。床に波のように紫陽花の花が散らばって、ドアに駆け出す俺たちを追って「持っていかなくていいの。」と知らないおばさんが声をかけた。泣くばかりで振り返らない矢野の代わりに、ごめんなさい、と訳も分からないのにそれだけ言った。閉まるドアの向こう、叱るような目がいくつもこっちを見ながら流れていった。ホームは生ぬるく、濡れた植物の匂いがした。
とっさに手に取った二人分の鞄を意味なく持ちかえ、二往復したところでようやく矢野は目元をこすりながら顔をあげた。線路のすぐ外側で息をするたくさんの葉の色を返して、緑色に染まっている。ばかみたいに立っている俺の手から鞄を取り、痛めつけるみたいに持ち手を強く握って改札に向かっていった。そして、海とは反対の方向へずんずん歩いて行ってしまう。はっと息を吸って走り、隣に並んでも、話しかけられるような雰囲気ではなかった。白いワイシャツの背中はちっとも気を開かないまま、重い湿度の中を進んでいった。
やっと止まったのは、山寺へ続く石段の途中だった。そこにも石段を両側から包むように紫陽花が多く咲いていて、木陰の下なのにぼんやりと光っているように見えた。観光のお年寄りはいない。誰もいない。ただ見えないところで何かが茂みを踏みしめる音がする。矢野は立ち止った足元に鞄を落として、聞き取れない何かをぽつりと言った。
空気はひんやりと涼しいのに、浴びた日光の熱がいつまでも体から抜けていかない。シャツと背中との隙間を汗が垂れて気持ちが悪かった。湿気は自分からも周りの植物からも立ちのぼり続けている。暑がっているのは俺だけで、見上げる矢野の肌にはちっとも熱っぽさがない。どうしてなんだろう、俺はこんなにも暑く、体の中の回転がどんどん加速しているのに。早まる息が頭を鈍らせて、段々、矢野と、その向こうでぼんぼりのように光る紫陽花との境がわからなくなっていった。
そうして、友達だ、人だという思いが薄れてしまったから、その体に俺はしがみついた。冷たい。水を含んだ冷たさが肌に気持ちいい。頬と頬、首筋と首筋をあわせて、滑りながら矢野の体の冷たいところを隅々まで探し続けた。体の熱がおさまって、ふと息をついたころ、太陽はずいぶん離れて薄暗くなっていた。
絡まっていた腕をほどいて、それぞれ鞄を拾い上げて俺と矢野は石段を下りて行った。ますます人の少ない通りを歩いていると口を重くさせる空気がすっかりなくなっていることに気がついて、俺は、暑かったからやっぱり海に行った方が良かったんじゃない、と言った。矢野は「うーん。」と普段と変わらないのんびりした声で悩んでから「俺はもう海に入れないよ。」と言った。電車の中で期末試験の出来について話している間、石段でのことはもうだれか別の人の出来事のように遠く薄くなっていた。
梅雨が明け、夏休みまでの数週間、矢野はほとんど学校に来なかった。メールを送ると体調があまり良くないから、と当たり前の返事だけがあった。試験の答案を家まで持って行ってやるとやたら嬉しそうに笑った。そのまま部屋に上がらされて学校の出来事を笑顔で聞く矢野は具合が悪そうには見えなかった。あまり出かけてはいないのか、休み始める前よりも肌が白く、うっすら青みがかって見えた。
矢野が学校に来ないまま夏休みに入り、俺はすることもないので時々矢野の家に遊びに行った。昼間は御両親が仕事で居ないという家はいつもひっそりとしていた。矢野の部屋は大きな窓があるためか日の出てい内はほとんど電気を点けない。二人だけでいる静けさと、自然光だけの低い照度は、ときどきあの山寺に行った日を思い出させる。駅でかいだ濡れた植物の匂いが、すぐそばに座る矢野から強くして、気がつくと俺は同じ様に彼にしがみついている。熱が吸われていく感触がひどく気持ちいい。肌が、目に見えないほど細かい水滴に覆われているように湿っていて、のどが渇いている時は夢中でその水を舐めとった。血管がますます透けて青く見え、まつ毛がいつも濡れていた。
「夏が終わらなければいいな。」と矢野が言った。俺は暑いのが苦手だから即座にブーイングをしたし「だって見られなくなったら意味がなくなっちゃうじゃん。」と言われてもよく意味がわからず、とにかく俺は夏が厭だと言った。
紫陽花の花弁が茶色く朽ちて、やがて一輪も見えなくなり、夏休みが明けると矢野はまた毎日学校に来るようになった。髪が少し伸びていて、もともと大人しかったのがよけいに静かな人間になったようだ。ちょっとしたことでは顔色も変えなくて、強い風でようやく揺れる葉の集まりみたいにひっそりとした雰囲気になっていた。
渋くなった? と聞いたのは学校の階段の踊り場だった。日当たりの悪いそこは真夏でも涼しい。思いついた話のために立ち止まるにはちょうどいい場所だった。移動教室のためにノートと教科書を抱える腕は、皮膚が少し乾いて大人びている。先を越されたような気分だと思いながら眺めていると、ゆっくり、少しだけ背をかがめて顔を近づけてきた。
「来年の六月は、また俺を好きになって。」と囁かれ、驚いて矢野の目を見ると、瞳に深く影がさしていた。いくつもの樹が重なるようなその影の遠く、遠くで、青白い光が小さく灯っているような気がした。固い大人の感触に見えていた彼の皮膚がえらく水分を含んで見えた一瞬、鼻に満ちたのはおぼれそうなほど湿った紫陽花の匂いだった。
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