稚魚
羽虫が電気カバーにぶつかる、乾いた音がする。しっかりと網戸を占めていたはずなのに、隙間から体をねじ込んだのか。それとも明るいうちから闖入していたのか。音は虫の体の硬度をまざまざと、いやでも想像させるほど目立っている。この一匹を追い出すために網戸を開け放すのは、しかしきわめて億劫だった。開いた途端に他の夜の生き物に入り込まれてはいけない。決して、意思も持たず道を間違えてしまったひとつより他の物を、入れてはいけない。もう、網に貼りついて、それは待ち構えているのだから。
「かじき、かじき。なぜ今年は川に寄らぬのか。まっているぞ。まっているぞ。主はじつにこいしい」
風が森を揺らす音か、あるいは虫や鳥の寝息だと、頭の中でねじ伏せてしまいたい。卓に広げた学術書に顔をつけ、ノートにインクをしみこませる。ありふれた所作に没頭することで、俺は全てを現実の範疇に押し込もうと力を入れ続けている。腕が痒くても掻かずに堪える。小さな声も、網目を移動するかすかな粘液の音も、きっと明るい日の下であれば暴けるのだ。俺は夢の中にいるのではない。田舎に来てまで追われる学問に精神が歪んでいるのでもない。正常、正常だと、繰り返し宣言する俺の鼻に、湿った夜の空気が吹き込まれる。あるはずのない花の匂いが、強くする。
「主は泣く。まいにちお前をよぶ。主が泣くと川があれるぞ。あれる。用もないものがおちてくる。かじき。かじき。こたえろ、かじき」
声が耳に寄せるほど、花の匂いが強くなる。ペンの軸に押し付けた指は爪の表面まで白く圧迫されている。俺はとっくに意味の通る文章をつづれなくなっている。こんなにも抵抗しているのに、もはや唇に歯を切れるほどくいこませても、囁きから耳を背けられない。
「お前のことをみなしっている。おれとこい。こずともまいにちよびにくるぞ。あすも、あすのあすもだ。かじき。かじき。主のこころのあるうちだぞ」
役を果たせないペンを横薙ぎに振って網戸に投げつけた。うわあ、といういくつもの声が庭に輪を描いた。思っていたよりもずっと沢山の生き物が集まっている。室内から見る窓はただの黒い四角だが、目を凝らせば大きな影の塊が広がっては戻り、ざわめきながら動いているのを知れた。唯一網戸にくっきりと在る、アマガエルの腹が浮いたように白い。
「こころのないものはおそろしい。おれも主がおそろしい。お前も主がおそろしいか。かじき。かじき。あいたあなはうめなければならない。お前だけでは足らないかもしれない。けれどもお前はきっとつれていく。かじき。かじき。あすもくる」
アマガエルが飛びのいて、数えきれないほどの足音がひそひそと交わしながら離れていった。俺へ何か言おうとはしない、自然の物音だけが残って、すこしの肌寒さが降ってくるまで、どれくらい待ったか分からない。ひそめていた息を緩めて、やっと俺は立ち上がった。止まっていた羽虫をちり紙に包んで、玄関まで運んだ。土間の端にそっと置き、明日誰かの出入りに乗じて逃げてくれればと願う。生き物にはあるべき場所というものがそれぞれあるのだ。俺は地面を歩いて、家や、学校や、ゆくゆくは働いて人の中で生きる。金を得て、金を使い、物を食べ、いつか死ぬ。当たり前のことだ。当たり前のことを踏襲して世の中の一部であればいい。大きな幸せや、苦しみをもって得られるものなども、無くていい。
もっと早く誰かに教えてもらいたかった。毎年の親の田舎への帰省。子供のいない村。きれいな水と草のにおい。ひとりの川遊び。物心つく前からそうしてきたのだから、疑いなんて持てるはずもなかった。けれど、誰かに、話していればよかったのだろうか。
皆寝てしまってた、だただ静かな廊下の床板にしゃがみこんだ。シャツの袖に指を差し込んで、痒い場所へ触れれば、皮膚と爪の間の硬さがある。鳥肌がたつと同時に指を抜いた。今年、ここへ来た初めの晩、風呂に入った時に見た、青いうろこの記憶が掠めて、俺は切れた唇をもう一度傷つけた。
知らなければ、知らなければ俺は勉強を放って一日だけでも川へ行った。そして会った。毎年と同じように、川の終わりで待つあの人に会いに行った。あの人の肌にもうろこが生えている。俺は小さいころからそれに惹かれていた。水中に溶ける澄んだ色にあこがれた。ひやりと冷たい硬い背中を抱くのが好きだった。誰も止めなかった。引き返そうなんてかけらも思わなかった。だけど自分の身に移った途端に、あれがあってはならないことだったと、初めて知ったのだ。
水の流れに揺られるような眩暈に落ちて、そのまま朝に目が覚めた。たしなめられながら食べる朝食はあまり味がしない。テレビのニュースは市内の中学生が水難事故にあったと報じている。シャツの袖を伸ばすように引きながら、かわいそうだ、と思った。まだ、本心だ。
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