こっこついばむ麦の殻
鶏一羽を胸に抱いて、しばらくお世話になりますと玄関に知り合いが立った時に、どんな顔をするのが正解だったろうか。
実際の俺は一切の揺らぎもなく、凪いだ表情のまま、訳を話しなさいと相手の前に正座した。勝手に上がろうとしていた相手は俺の体につんのめりながらも、転ぶ寸前でバランスをただし、合わせて土間に膝をついた。
結婚が決まった。気の乗らない見合いに顔だけ出すつもりが、座してしまったら瞬きを終える間に結納まで済ませられていた。新居をあてがわれ相手の親と花嫁と共に住むことになったが、まるで現実味がなく朝起きた時に異界の部屋で目覚めたようで恐ろしい。仕事の用だと誤魔化してしばらく帰らぬと言い置いたが、行場所がないので一戸建て庭付きの俺の家に身を寄せたい。
「鶏は」
「宿代として卵を。毎日産みますから」
それからこれも、と差し出された桶にはどじょうが数匹入っていた。屋内の薄暗さに不気味に光るぬらぬらした粘膜を眺めている隙に、男は靴を脱いで俺の横を通り過ぎ、庭に鶏を放った。すでに俺が飼っていた鶏が驚きの声をあげる。庭には二羽鶏がいる。
男は柳川といって学生時代の後輩であり、寮の同室でもあった。出来は悪いが勉強熱心な後輩に何くれと世話を焼き、その関係が卒業してからもなかなかの太さで続いた。やれ、俺の卒業の際の課題を見せてくれ。やれ、就職の口があれば紹介してくれ。やれ、好きな女子と出かける先を教えてくれ。やれ、好きな女子と縁切れた時の過ごし方を教えてくれ。
「いつまで居座るか決めておくべきだ」
どじょうと玉子を炊いた鍋を間に挟み、もうもうと立つ湯気の向こうを見据えながら言った。よそった小鉢に息を吹き込んでいた柳川は、頬をしぼませて箸を下ろした。
「一週間ほど、でもそれで僕の整理がつくかどうか」
「もう決まったことなんだろう。お前の心なんだから、定まるのをただ待っていたって仕方ないじゃないか」
「それはそうでも、先輩は結婚をしたことが無いから分からないんだ」
気に障るほど神妙な表情で、柳川は再び持ち上げた小鉢に口を寄せた。俺は鍋をひっくり返したいのをぐっとこらえて、残っていたどじょうの身をすべて自分の鉢に取り出した。
「三日で出ていけ。それから先は知らん」
甘辛い汁をすすって、煮えくり返る腹を静めようと努めた。俺はどんなに理不尽を被り、どんなに不都合があってもこの男に対して声を荒げたことが無い。吸って吐き出さぬ怒りは、身体の奥底で溶岩みたくふつふつと沸きながら静かに満ちる。鍋を覗き込んだ柳川が、目玉を剥いてどじょうを探すのを見て、やっと気管を焼かぬ程度の冷めた息を吐くことができた。
翌朝。
庭に産み落とされた二つの白い卵を収穫し、ほうれん草を一束切って味噌汁に入れ、卵焼きと白米と共に並べる。柳川を起こして食事を済ませ、仕事へ向かう。帰宅すると柳川は縁側で眠りこけていた。仕事は本当に休暇をとったらしい。食事をして風呂を沸かして眠る。
翌々朝。
二つの卵を収穫し、魚を焼く。食べ終わったころにのそのそと起き出した柳川へ朝食の存在を知らせて仕事へ向かう。帰宅するとすでに風呂が沸いていて、一番風呂をもらった。夕食を食べて眠る。
三日目の朝。
日曜日であった。起きた時には柳川が皿に目玉焼きを一つずつ取り分けていた。米の炊けた良い匂いに腹が目覚めて低く鳴いた。
今日で出ていくだろうと思いながら食事を終え、床掃除をしていると柳川が雑巾を探し当ててきて加わった。真剣な面持ちで畳の目の方向に雑巾を動かす男の様子は、学生時代に懸命に教科書を読み込む姿とよく似ていた。ふつふつ。腹の溶岩が熱を上げる。
「それが終わったら帰るんだろう」
汚れた布に水を流す背中に向かって、言葉のつぶてを投げた。ぽこんと軽く当たられて、振り返った顔は何かを願う顔だった。
「だめだ」
相手の唇が開いたのを見た瞬間、ほとんど反射によって俺は声を出した。少し、荒れていた。
袖をまくって台所に立つ格好にも、先ほどの雑巾がけの様子にも、朝飯を準備した殊勝な態度にも、ひどく苛立つ自分を知る。もし胃の中に残っていたならば、初日のどじょう鍋を顔に吐きかけてやりたかった。
「短すぎます」
「結婚なんてする方が悪い」
「望んではいませんでした」
「もう俺のところへ来るんじゃない!」
初めての、喉の震えだった。二人では広すぎる居間の壁や天井から降ってきた残響は、俺の声が元なのに俺を嘲笑しているような気がした。みっともなさに顔が熱くなる。これだから感情を表に出すのは益が無い。男に対して一切の気持ちを静めて、堆積させてきた腹の中はもう満杯だった。怒鳴ったことでその汚泥が吐き出されたわけでもない。身の内と外と、両方から苛まれて俺は頭を上げることができなかった。柳川は無言のまま庭へ下り、鶏を一羽抱えて俺の背を過ぎた。この、他の何にも代替がきかない唯一の男への、あらゆる感情は少しも治まりやしなかった。
「ご迷惑でした。あなたへずっと甘えていたかった。さようなら」
引き戸の音がからからと、やけに乾いている。静まり返った部屋の中に日の光が苦しいほど差し込み、俺は床に腰を抜かして座りこんだ。体の中で荒れ狂う波や、暴力の響きや、乱れた調和を処しようもなく、ただぼんやりと庭へ目をやる。知らん顔で首を振りあるく一羽の鶏。とさかの形が見慣れない。
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