二人の鼓膜

 空から来たと紹介した割に、田渕という男にはなんら特別な存在らしい象徴も、畏怖させるような輝きもなかった。洗い古したシャツと苔のような髪型という風体からして、なんなら街頭一般の男よりも華がない。大人しく、質素な唇が、そこだけ違う空気で「空に比べれば呼吸がしやすい」などと話す。

「空なんて、さぞかし寒いんでしょうけど」

「そうですね、基本的には凍りやすいです。こんなに堆積した水もないし、この、生き物もいない」

 言いながら田渕はくいっと釣竿を引き上げた。短めの竿は彼の手の延長として自然にしなり、10センチほどの魚が、びちりと雫を飛ばした。なんと言う種類なのだか聞く前に、食いつきのあまかったらしい魚は針を吐き出して、生簀の中に戻って行った。

 釣り堀の建家の中は、鼻にむっとつまる水のにおいに満ちていた。室内釣りどころか川釣りさえしたことがない自分が、田渕に連れられるまま初めて入った。まずは一見と竿を借りずに田淵の趣味をみているが、こんなにも、時の流れから離れた場所だとは思わなかった。只座っているだけで意識が引き伸ばされていき、もうどれくらいいたかわからない。

 田淵との知り合いは、仕事のツテの某の紹介であった。ともに何かをするでもないが、縁遠くもない関係で細々とつながりがある。室内に舞う小さな埃どうしが、たまたま空気の流れてぶつかるような、そんな作為のない偶然で二人話をしたときに、よければ今度の休みに釣りにでも、という話になった。

 それからいくつも経たない日に予定が合い、名前だけ知っているような駅で待ち合わせてここにきた。先言したとおり釣りは趣味の範囲外だが、もともと敢えて言うような個人の楽しみが自分にはない。いつも家で過ごすように、あまり動かない顔で、ただ田淵の横で肘をついて座っている。口数も自覚するくらいには少ない。ぽつぽつと、たまに浮かんでくる泡のようにしていた会話の中で「実は、僕は空からきたんです」と、滑り込ませるように告白された。

 自分は、ああ、とかなんとか言っただろうか。思ってみれば、退屈そうにしている自分を気遣っての冗談だったのかもしれない。だが、田淵の顔にはひとをからかってやろうという、押すような気配がみじんもなかった。また、無駄なうそを言おうとする、なげやりな雰囲気もなかった。その告白の前後の空気は変わることなく、耳の奥でそっと水の音が震え続けている。

 田渕の手つきは小ぶりで、きれいなものだった。竿を振り、魚が釣れると少しだけ笑う。そして放すとき、もう少しだけ笑う。冴えない顔色のまま、布がよれるように。

「よく、来るんですか」

「ええ、仕事が休みだと、つい来てしまいます。降りてきてから初めてした遊びで、なかなか飽きません」

 空は、と言いかけた時、どこかで救急車のサイレンが鳴った。なんとなく口をつぐむと、すぐに呼吸は途切れてしまう。プレハブのような建屋の中をひとしきりハネたあと、サイレンは余韻も薄く消えて、あとはかすかな魚の音がところどころに落ちているだけだ。こちらの不完全な言葉を聞いていたのかいないのか、田渕は水面に視線を注いだままでいる。

「いろんな音がしますね」

 と、田渕は言った。それが先ほどのサイレンを指しているのか、それとも彼が地上に来てから聞いたあらゆる音を指しているのか、色のない横顔からは読み取れなかった。ただ、こんなに静かな世界の中で言うのなら、空はどんなに、どんなに広く閉じているのだろう。

 頭の中にぼんやりと、はるか高い世界のことを思い浮かべた。色もなく、寒い。そこに静けさを足そうものなら、もう耳鳴りがしそうで、だめだった。

口を閉じている時間が長いほど、次に開けるのが重苦しくなる。けれど適当な言葉も告げないまま、するすると泳ぐ魚と田渕の顔を交互に見つめた。しばらくするとまた糸が張り、竿がしなって、水をまとわりつかせた生き物が空中に飛び上がる。視界の真ん中で、田渕は笑った。笑って、こちらを向いた。

「ありがとうございます、こんなことに付き合ってくれて」

「え」

「誰かと一緒に来るのは初めてですが、一人よりもずっと楽しい。あなたと来てよかった」

 そういって、田淵は笑う。魚を放すときよりもずっと穏やかに。ため息のような、声でもない笑い声で。

 俺はやはり引き継げずに、田淵のしゃんとしていない襟元をうろうろと見つめ、静かに消えていく笑みを仕舞いこんだ。

「田淵さん、空は」

「はい」

「空からは、お一人で来たんですか」

「……ええ」

 いつか帰るんですか、と、喉元まで出かかった言葉を、唾液に含めてゴクリと飲み込んだ。代わりに「魚、好きになりそうです」と、つまずいたような文を述べてしまった。田渕はあまり反応しなかったが、それでよかった。とても近い距離で魚のはためく音を聞く。何度でもそっと釣り上げられる魚は、たしかに愛おしいのだ。

白状

申し上げます どうかこれきりと願います

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